八代の殉教者(11名)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:30 UTC 版)
「ペトロ岐部と187殉教者」の記事における「八代の殉教者(11名)」の解説
キリシタン大名の小西行長が南肥後の領主であったが、関ヶ原の戦いで敗れたことにより、その領地は加藤清正のものとなった。加藤清正は日蓮宗を厚く信仰しており、領内のキリシタンにも日蓮宗への改宗を強制し、従わない者に対しては容赦ない弾圧を加えた。 1603年12月8日殉教ヨハネ南五郎左衛門 (35歳):斬首 1603年12月9日殉教マグダレナ南 (33歳)(ヨハネ南の妻):磔刑 ルドビコ南 (7歳)(ヨハネ南の養子):磔刑 シモン竹田五兵衛 (33歳):斬首 アグネス竹田 (30歳)(シモン竹田の妻):磔刑 ヨハンナ武田 (年齢不詳)(シモン竹田の母):磔刑 1606年8月16日殉教ヨアキム渡辺次郎左衛門 (55歳):獄中にて病死 1609年2月4日殉教ミカエル三石彦右衛門 (50歳):斬首 トマス三石 (13歳)(ミカエル三石の息子):斬首 ヨハネ服部甚五郎 (39歳):斬首 ペトロ服部 (5歳)(ヨハネ服部の息子):斬首
※この「八代の殉教者(11名)」の解説は、「ペトロ岐部と187殉教者」の解説の一部です。
「八代の殉教者(11名)」を含む「ペトロ岐部と187殉教者」の記事については、「ペトロ岐部と187殉教者」の概要を参照ください。
- 八代の殉教者のページへのリンク