元朗墟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 09:31 UTC 版)


元朗墟(げんろうきょ/ユンロンきょ、イェール式広東語: Yùhn lóhng hēui、英語: Yuen Long Hui; 1960年前はUn Long Hui)は香港新界元朗区にある歴史的な墟市(定期市から発展した市街地)であり、元朗旧墟(中国語: 元朗舊墟; イェール式広東語: Yùhn lóhng gauh hēui、英語: Yuen Long Kau Hui)および元朗新墟(イェール式広東語: Yùhn lóhng sān hēui、英語: Yuen Long San Hui)に分かれる。元朗旧墟は元朗市中心の北東縁に位置し、現在は十八郷郷事委員会の構成村の一つである。元朗新墟は水車館街一帯を指し、のちに拡張されて現在の元朗市となり、元朗市中心の心臓部として最も繁華な区画となっている。
歴史
大橋墩墟

古くは「墟」または「集」とは、農民が農作物を売買する中心地であった。清嘉慶二十四年(1819年)版『新安県志』によれば、元朗には「大橋墩墟」という名の墟市があり、「圓朗墟」とも称されたが、その位置は不詳であり、元朗河口の西岸、大橋村、あるいは大旗嶺にあった可能性がある。大橋墩墟は遷界令により荒廃し、一度は衰退した[1]。
元朗旧墟
康熙八年(1669年)、清朝は遷界令を撤廃し、同年、錦田の進士鄧文蔚が封地を得て墟市を設立した。鄧氏は大橋墩墟を西辺囲と南辺囲の間に移し、これが現在「元朗旧墟」と呼ばれる場所である。大樹下天后廟に現存する、咸豊六年(1856年)に刻まれた「重修天后古廟碑」にも、「清康熙八年に、大橋墩市場は元朗に移った(中国語: 清康熙八年大橋墩市場改遷元朗)」と記録されている[1][2]。元朗墟の墟主(所有者)は、錦田泰康囲鄧氏・鄧文蔚の家系のひとつ「光裕堂」であった。
元朗墟は、錦田・屏山一帯の農産物集散地であった。場内には長盛街、利益街、酒街という三本の主要な通りがあり、東門口と南門口の二つの出入口が設けられていた。各種の業種の店舗が並び、合計で102軒の店があった。毎月の墟期(市日)は、三、六、九の日、すなわち農暦の初三、初六、初九、十三、十六、十九、二十三、二十六、二十九日であり、取引に利用される公秤(共用の秤)が設けられ、その使用料からなる収益は「光裕堂」に帰属した。
20世紀初期、元朗の発展が進むにつれて、元朗涌(旧称「水門頭」)の河床が土砂で埋まると内陸からの貨物は水運が使えなくなり、青山湾碼頭で荷下ろしした後、陸路で元朗墟まで運ばれるようになった。そのため、1915年に元朗新墟が建設されて以降、元朗「旧」墟は徐々に衰退していった。現在、元朗旧墟の長盛街には多くの古い建物が残されており、「満清一条街」と呼ばれている[3]。
2021年6月の香港の豪雨の後、同益桟に隣接する古建築の一棟でバルコニーが突然崩落したが、負傷者はいなかった[4]。
元朗新墟
20世紀初期、元朗の発展に伴い、旧墟の場所では対応しきれなくなった。八郷、十八郷、屏山の住民の間では、村民が商売をするたびに地代を納めなければならず、公平な取引が行えないことから、旧墟の土地権利や商取引を壟断する名族・鄧氏への不満が広がっていた[2]。そのため、戴鉅臣、鄧英生、伍醒遲、梁惠戴、鄧可光、黎翌才、易贊臣らが新たに市場を建設することを提案し、1株2元で1万株を募り[2]、「合益公司」を設立して新たな市場を建設し、1915年に旧墟南西にあたる場所に完成した。元朗新墟は新しく建設された青山公路(元朗段)に隣接しており、「五合街」と総称される合益街、合発街、合成街、合和街、合和後街の5つの街路と、94棟の2〜3階建ての建物からなる街区からなっていた。当時、各建物の価格は約750元で、1階は店舗、上階は倉庫、工場、住宅として使用された。新墟は合益公司によって管理され、年間の地代は当初1元だったが、後に5元に引き上げられた。さらに、新墟には露店用の空き地も設けられ、露天商は墟期(旧墟と同じ三、六、九)に市場で販売するために2仙の料金を支払う必要があった。また、合益公司の所有する公秤も設けられ、入札制で商人に運営が委託された[5]。当時、新墟では穀物が最大の取扱商品であり、墟場中央には屋根付きの「大穀亭」が建設され、住民の売買に利用された。現在の「谷亭街」はこの建物の名前に由来している。新墟は広大な敷地を有し、旧墟よりも人気を集めたため、旧墟は次第に衰退していった[1]。
1930年代から[要出典]第二次世界大戦前後にかけて新墟は繁栄し[2]、一時は 新界西北部の元朗平原で最大かつ著名な墟市となった[要出典]。その後、1970年代に政府が元朗の大規模な開発を推進したことに伴い、元朗新墟は次第に元朗市中心としての役割を果たすようになり、元朗ニュータウンとの一体化が進んだ。そして1984年4月には完全に取り壊された。
満清一条街
元朗旧墟には清代以来の歴史的建造物が数多く残されており、以下の建築物は香港政府古物古蹟弁事処により評級(等級)が提案されている:
名称 | 評級 | 建築年 | 備考 |
---|---|---|---|
同益桟 | Ⅰ | 1899年以前 | 利益街20号Aおよび21号。香港に現存する唯一の清代の客桟(旅館)建築 |
晋源押 | Ⅰ | 1910年代 | 長盛街72号。香港に現存する最古の押鋪(質屋)建築 |
大王廟 | Ⅰ | 康熙年間 | 洪聖王および楊侯公を祀る。元朗旧墟の政治と信仰の中心 |
玄関二帝廟 | Ⅰ | 1714年 | 玄天上帝と関帝を祀る |
利益街12号 | Ⅱ | 1900年以前 | |
利益街31号 | Ⅱ | 1900年以前 | |
利益街47号 | Ⅱ | 1900年以前 | |
利益街24号 | Ⅱ | 1900年以前 | |
利益街27号 | Ⅱ | 1900年以前 | |
利益街14号 | Ⅲ | 1900年以前 | |
南門口33-35号 | Ⅲ | 1920年代 | |
長益街23号 | Ⅲ | 1910年代以前 |
関連する街道
新墟
- (旧)合益路
- 谷亭街
- 元朗東堤街
- 西堤街
- 水車館街
- 水車館里
- 元朗泰衡街
- 元朗泰祥街
- 泰豊街
- 泰利街
旧墟
- 長盛街
- 西渓路
- 鈞楽里
- 利益街
- 酒街
- 五和路
- 元朗旧墟路
-
元朗東堤街の街路名標識(2022年1月)
-
西堤街の街路名標識(2022年3月)
-
水車館街の街路名標識(2021年8月)
-
水車館里の街路名標識(2021年8月)
-
水車館里(2022年6月)
-
元朗泰衡の街路名標識
-
泰豊街
-
泰利街の街路名標識(2021年8月)
-
泰利街(2022年6月)
-
長盛街(2022年3月)
-
鈞楽里の街路名標識(2022年3月)
-
五和路の街路名標識(2022年4月)
-
五和路付近の五和公立学校
-
元朗旧墟路の街路名標識(2022年1月)
-
元朗旧墟路付近の鐘声学校
脚注
- ^ a b c 蔡兆浚 (2024年2月6日). “【地方志/趣】由「圓蓢」到「元朗」——善用傳統地緣紐帶 構建-香港商報”. 香港商報. 2024年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月15日閲覧。
- ^ a b c d 何文匯(主持) (16 September 1984). 百載鑪峰1984年第四集〈元朗新舊墟〉 [Archaeology and Antiquities] (電視節目). 香港: 香港電台電視部. 2017年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2019年4月29日閲覧.
- ^ “元朗舊墟”. 民政事務總署. 2025年7月15日閲覧。
- ^ “元朗百年建築露台倒塌無人傷 旁為一級歷史建築同益棧 (22:47)” (中国語). 明報新聞網 - 即時新聞 instant news (2021年6月28日). 2021年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月29日閲覧。
- ^ 《鄭萃群︰元朗新墟的創立發展》,華南研究第一期,頁124—142
参考文献
- 《新界宗族文化之旅》,嚴瑞源編著,萬里書店,ISBN:962 14 2936 6
- 《一起走過的日子;蛻變的小墟》,編導:翁子忠 ,香港電臺:
関連項目
外部リンク
- 經典重溫頻道 --- 百載鑪峰 --- 元朗新舊墟 (1984) アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン
- 元朗墟のページへのリンク