伊達晴宗と輝宗の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/20 01:36 UTC 版)
天文の乱によって父・稙宗を隠退に追い込んだ伊達晴宗は中野宗時・桑折景長という2人の重臣に支えられ、国内を固めると共に室町幕府から奥州探題に任命されるなど、伊達氏の勢力立て直しを進めた。 その後、永禄9年(1564年)頃に晴宗は輝宗に家督を譲ったが、家中の実権は自身が握ったままであったために両者に対立が生じた。晴宗が米沢城郊外の新川に隠居館を造営しようとするのを輝宗が妨害したり(そのため、晴宗は杉妻城を隠居城にした)、輝宗が反乱を起こした田手宗光の討伐をしようとするのを晴宗が反対したりした。更に輝宗は晴宗の反対を押し切って、妹の彦姫を自分の養女として蘆名盛氏の嫡男盛興に嫁がせ、秘かに盛氏からは晴宗と輝宗が争った際には輝宗の味方になる約束を取り付けていた。
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