于公異とは? わかりやすく解説

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于公異

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/01 09:09 UTC 版)

于 公異(う こうい、生没年不詳)は、文人本貫蘇州呉県

経歴

建中2年(781年)、進士に及第した。建中4年(783年)、李晟の下で招討府掌書記となった。興元元年(784年)、李晟が朱泚の乱を平定すると、公異は長安に帰り、露布に文章をしたためた。徳宗はこれを見て泣き、公異が作ったと聞いてまた感嘆した。

公異は陸贄との仲が険悪であった。ときに公異は継母に孝事せず、このため帰省しないのだと噂された。貞元8年(792年)、陸贄が宰相となると、公異の家庭事情を奏上した。徳宗は公異に『孝経』を賜り、郷里に帰させた。公異は冷遇されたまま死去した。

伝記資料




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