二宮事件
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二宮事件(にきゅうじけん)、二宮の変(にきゅうのへん)、または南魯党争(なんろとうそう)[1]は、三国時代の呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争いであるが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般的な原因とされる。
- ^ 呉では皇太子の宮殿を「南宮」と称した。
- ^ a b 孫和側の陸遜以下7人、孫覇側の全琮以下5人は、『三国志』呉志 孫和伝 に引く『通語』による。
- ^ 吾粲・屈晃・陳正・陳象は、『三国志』呉志 孫和伝 による。
- ^ a b 張純・孫峻は、『三国志』呉志 孫和伝 の注に引く『呉書』による。
- ^ 『三国志』呉志 張昭伝 による。
- ^ 『三国志』呉志 顧雍伝 による。
- ^ 『三国志』呉志 顧雍伝 の注に引く『呉書』による。
- ^ 『三国志』呉志 陸凱伝による。
- ^ 全奇・呉安・孫奇・楊竺は『三国志』呉志 孫覇伝 による。全奇は全琮の次男。
- ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝 による。諸葛綽は諸葛恪の長男。
- ^ 『三国志』呉志 駱統伝 による。
- ^ 『三国志』呉志 陸遜伝による。
- ^ 『資治通鑑』魏紀八 による。
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