中野城 (下総国)とは? わかりやすく解説

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中野城 (下総国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 14:40 UTC 版)

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中野城
千葉県
城郭構造 平城
天守構造 ?
築城年 室町時代
主な城主 酒井定隆
廃城年 1488年(長享2年)
遺構 本城寺
指定文化財 史跡等未指定[1]
位置 北緯35度34分55.9秒 東経140度15分56.5秒 / 北緯35.582194度 東経140.265694度 / 35.582194; 140.265694座標: 北緯35度34分55.9秒 東経140度15分56.5秒 / 北緯35.582194度 東経140.265694度 / 35.582194; 140.265694
地図
中野城
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中野城(なかのじょう)は、千葉県千葉市若葉区にあった日本の城

歴史

旧下総国にあった城。酒井定隆が築いたとされるが不詳である。定隆の祖について、藤原氏系、千葉氏系、土岐氏系の諸説があり、いずれが正しいかわからない。

上総酒井氏は当時、原氏の客将となっており、後に長享元年(1487年)に土気城畠山氏を攻撃した。翌年、土気城に移った。定隆は戦国武将へと成長し、浜野の本行寺から日泰上人を迎え、本寿寺を開基するとともに領内を法華宗をもって統治した。

この後、1488年(長享2年)に中野城は廃城となり、跡地には定隆の懇請により日泰上人が道場、本城寺を建て布教に努めた。

構造

千葉東金を結ぶ東金街道国道126号)に接し、下総国と上総国の境目に位置する。鹿島川の河川系に属する標高54メートルの北に突き出した半島状の台地を占地する。城郭は北及び北西から南にかけてあまり深くない浸蝕谷が入り、東は台地に続き、天険の地とは言い難い地勢である。

アクセス

脚注

参考文献




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