不義理の日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/02 08:19 UTC 版)
不義理の日(ふぎりのひ)とは毎年4月1日、親しい人に手紙を送る風習のことである[1]。また、現代のエイプリルフール同様にどんな嘘でもまかり通る日とする説[2]もあるが確認できる最古の出典に間違いが多くこの行事自体がエイプリルフールの嘘である可能性がある。
確認できる最古の出典
現在確認できる最古の出典は月刊読売1949年4月号に載る松井翠声が書いた四月馬鹿実説という記事だ。 以下にあげるような記述がある。
- 哲学者ディオゲネスの元に王様が来て望みを聞かれた際、「太陽が当たらないからそこをどいてくれ」と言った話
- ナポレオンがワーテルローの戦いで4月1日に来た軍略の手紙を無視した結果戦争に負けたという話
- 元禄快挙録外伝に載る高田馬場の決闘の記述を見るに日本には4月1日に不義理の日というものがあった話[3]
怪しい出典
松井翠声の四月馬鹿実説には不可解な記述が多いため列挙する。
- ディオゲネスの記述
ディオゲネスが「太陽が当たらないからそこをどいてくれ」と発言した後、王の使者が即刻立退の命令書をディオゲネスの元へ持って行ったが日付が4月1日であったためエイプリルフールの冗談だと思いディオゲネスはその命令書を無視したと四月馬鹿実説内で語られるがディオゲネスがいた紀元前412年から紀元前323年にエイプリルフールは無かったと考えられる。
- ナポレオンの記述
ワーテルローの戦いは四月一日ではなく六月十八日[4]
- 本紙に載せたという記述
読売新聞本紙の4月1日号(年度は不明)の4面6、7、8、段に松井翠声が記事を載せたとあるが松井翠声による記事は4月1日号には確認できずそもそも当時の新聞は2面までしかないものが多かった。
不義理の日の元になった記述
高田馬場の決闘の前、中山安兵衛のもとへ叔父から手紙が届いた。その日はちょうど不義理の日であったため普段から飲兵衛の安兵衛の深酒をたしなめるものであると思った安兵衛は手紙を開けずに無視した結果、実はその手紙の内容は育ての親同然の叔父(菅野六郎左衛門)が村上庄左衛一味と決闘するというものであり、酔いが覚めた後にその事実を知った安兵衛はやられてしまった叔父の仇討ちをするという話が不義理の日という行事の確認できる最も古い用例と四月馬鹿実説に載るがそもそも高田馬場の決闘は元禄7年2月19日のこととされるため怪しい[2]。
『元禄快挙録』に載る記録
『元禄快挙録』中篇百七十話には中山安兵衛が伝えられてすぐに後事は後事、
と語り追取り刀で(急いで)決闘の場に向かったことが書かれている。なお安兵衛は向かう途中、牛込馬場で酒屋を見つけ、気付けの酒を飲んでから決闘の場に駆けつけたという[5]。
出典
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