七条兼仲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/24 03:22 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正10年(1582年) |
別名 | 孫次郎、求馬 |
氏族 | 七条氏 |
父母 | 父:七条敏仲 |
七条 兼仲(しちじょう かねなか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。阿波国板野郡七条城主。
略歴
七条氏は阿波の国人。阿波小笠原氏の支流で、三好氏・高志氏と同族である[1]。
七条敏仲の子として誕生。生年は天文23年(1554年)との記録もあるが、父の没年(天文21年(1552年))と計算が合わないので誤記載と思われ、それ以前の生まれと推測される。
怪力無双の勇将として知られ、数々の合戦で武勇を馳せたという。天正10年(1582年)、中富川の戦いで十河存保方に属して長宗我部元親と戦い戦死した。最期については、篭城中に戦死したとする説と、野戦で討ち死にしたとの二説がある。
逸話
徳島県には、大鏡餅(三方を含み約169kg)を抱えて、歩く距離を競う「力餅」という行事がある。これは、兼仲が戦に備えて力を授かろうと大山寺に祈願し、鏡餅を奉納したのが起源といわれており、400年の伝統をもつ。
脚注
七条兼仲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 20:02 UTC 版)
「八男って、それはないでしょう!」の記事における「七条兼仲」の解説
リンガイア大陸南方にある「アキツシマ島」の住人。秋津洲家と隣接する領地の当主。
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