ヴァイス・マンフレート
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ヴァイス・マンフレート (Weiss Manfréd) は、1880年代にハンガリーで設立された金属加工・重機械工業メーカー(ハンガリー語: Weiss Manfréd Acél- és Fémművek、英語: Manfréd Weiss Steel and Metal Works)の名称、および、この企業を設立したハンガリーのユダヤ人系実業家の名である。
この企業はもともと缶詰工場として設立されたが、数年後にはハンガリー軍向けの薬莢や弾薬を生産するようになり、第一次世界大戦の頃にはハンガリー国内で最大、オーストリア=ハンガリー帝国域内全体でも2番目に大きな重機械企業/軍需企業となっていた[1]。
第二次世界大戦ではハンガリーはナチス・ドイツ(枢軸国)側につくことになり、ヴァイス・マンフレートの工場はハンガリー軍向けの戦車や装甲車、軍用機などを多数生産していた。戦況が悪化した1944年にハンガリーが休戦を模索しはじめるとドイツ軍によって侵攻され工場は接収された。ヴァイス・マンフレートの工場は連合軍によって度重なる空襲を受け、多くの設備が破壊された。戦後、工場設備の再建や戦後賠償のための生産などを経て、1948年にはハンガリーの国有企業となった。
ハンガリー語では日本と同様に人名を「姓・名」の順で書くため「ヴァイス・マンフレート」となるが、英語圏や他の欧州の多く、例えばオーストリアの公用語であるドイツ語においても「名・姓」の順であるため、「マンフレート・ヴァイス」としても知られる。工場の名としては、地名を冠したチェペル工場(Csepel Művek)としても知られる。また日本語資料では「ヴァイス/ワイス」「マンフレート/マンフレッド」などの表記揺れが存在する。
歴史

1882年に、ヴァイス・マンフレートとその弟ヴァイス・ベルトルトによって、""ヴァイス・ベルトルト・エス・マンフレート・エルソー・マジャル・コンセルヴ・ジャル""(ヴァイス・ベルトルトとマンフレート第1ハンガリー缶詰工場)が首都ブダペストのレーヴォルデ広場近くに設立された。ヴァイス兄弟は工場を徐々に拡張し、軍向けの戦闘糧食の生産を皮切りに弾薬の整備事業やブリキ缶の製造などに手を広げ、1886年頃からオーストリア=ハンガリー帝国軍向けの銃火器の薬莢や弾薬の生産を行うようになった。1892年には現在のブダペスト南部にあたるチェペルに歩兵用小火器の弾薬工場が新設されハンガリー軍向けに8mmマンリヒャー小銃弾の量産が開始された。1893年頃からはロシア帝国軍向けにモシン・ナガン小銃弾の製造も行うようになった。1896年にヴァイス・ベルトルトが経営から身を引き政治家に転身したことで、「ヴァイス・マンフレート第1ハンガリー缶詰・金属製品工場」の名称となった[1]。
ヴァイス・マンフレート社はハンガリー国内で大きな軍需企業に成長し、この当時の競争相手は国営企業のディオーシュジュール製鉄所であった。1906年、マンフレート社は民間産業組合の支援を受け「国営企業は民間業者が生産できないような製品のみを製造する」という内容の法律の制定を働きかけた。これによってディオーシュジュール工場の製品製造に制限が設けられたことから、マンフレート社はこの市場で最大規模の企業に成長した[1]。
1910年代に入るとオーストリア=ハンガリー帝国が軍事予算を増大させ、これがマンフレート社の成長をさらに推し進めることになった。マンフレート社は工場や製鉄所の新設や拡張を行い、第一次大世界大戦直前の時期には、オーストリア=ハンガリー帝国のみならずセルビア王国・ブルガリア王国・スペイン・ポルトガル・メキシコ・ロシア帝国の軍に対しても主要な弾薬供給元となっていた[1]。マンフレート社には1913年の時点で約5000人の従業員がいたが、1917年頃には総計約3万人の従業員を抱え、200棟以上の工場を所有していた。設立者のヴァイス・マンフレートは帝国への貢献を認められ、貴族(男爵)の称号を与えられた。ヴァイス・マンフレートはハンガリーで最も裕福なユダヤ人実業家となっていた[1]。
第一次世界大戦中、ヴァイス・マンフレート社は多種多様な弾薬(歩兵銃火器用や砲兵用の重火砲用など)を大量に生産した[2]。
ヴァイス・マンフレート男爵は1922年にこの世を去ったが、マンフレート社はその後も成長を続け、第二次世界大戦勃発の頃には従業員約4万人を抱えるコングロマリットに成長していた[3]。マンフレート社は砲弾や弾薬だけでなく、装甲車や戦車のようなものから自動車・トラック・オートバイ・自転車にいたるまで様々な工業製品を製造していた。この頃、マンフレート社の経営陣はヴァイス家の親族らを含むユダヤ系ハンガリー人が多くを占めていた[3]。1944年にハンガリーがドイツによって侵攻された際、彼らの多くはゲシュタポに逮捕された[4]。ヴァイス家はポルトガルへの移住を許されたが、多くの財産(工場設備や工業団地、あるいは個人的に収集した美術品コレクションなど)はドイツによって接収された[4][5]。ただ、建前上ドイツ側の見解としてハンガリーは主権国家として存続しており、工場の所有権そのものはヴァイス家に残されていた。
1944年以降、ヴァイス・マンフレートの工場設備は連合軍により何度も空爆を受け、多くの工場が壊滅的な損害を受けた。戦後、工場の修復、生産再開が進められたが、市場への製品供給だけでなく、生産力の多くが戦後賠償に充てられた。1947年には工場で生産された90%が賠償に充てられていた。
1948年には工場は実質ほぼ国有化され、のちにハンガリー人民共和国首相となったラーコシ・マーチャーシュの弟で、技術者であったビロー・フェレンツが工場長を務めた。1950年にはハンガリー第二共和国が崩壊し社会主義制のハンガリー人民共和国が成立したことで完全に国有化され、工場の名はラーコシ・マーチャーシュの名を冠したものに変更された。
出典
脚注
参考文献
- Iván T. Berend (2013). An Economic History of Nineteenth-Century Europe: Diversity and Industrialization. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 521. ISBN 9781107030701
- Theodore P. Savas; Kenneth Alford (2002). Nazi Millionaires: The Allied Search for Hidden SS Gold. Havertown: Casemate Publishers. pp. 320. ISBN 9781935149682
- Randolph L. Braham (2000). The Politics of Genocide: The Holocaust in Hungary. Wayne State University Press. pp. 321. ISBN 9780814326916
関連項目
外部リンク
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