ラザフォード・オールコック
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サー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB、1809年5月 - 1897年11月2日)は、イギリスの医師、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務めた。開国前後の幕末日本見聞記『大君の都』の日本語訳は、長年重版している。
- ^ 日本大百科全書『オールコック』。
- ^ 横井(1988) p.101-102
- ^ 当時のイギリスでは、領事は在留イギリス国民の利益を保護する立場にはあるが、「外交官」ではなく、また領事が「大使」「公使」に昇進することも無かった。しかし、オールコックには法的には「全権」が与えられており、実質的には外交官としての役割が期待されていた。オールコックは後に公使に昇進するが、これは領事から公使へ昇進した最初の例であった。
- ^ 上海には丁度タウンゼント・ハリスが滞在しており、オールコックはここで日本に関する予備知識を得ることができた。
- ^ 川崎(2012) p.40
- ^ 幕府が横浜を開港地に決めたのはオルコック来日の3ヶ月も前の4月1日(2月28日)であり、突貫工事で横浜居留地を完成させていた。
- ^ 他国も神奈川に領事館を置いたが、1年後にオランダ領事館が横浜に移転し、結局はイギリス領事館も横浜に移転した。この間、イギリスの商人たちは自己の利益を追求し、全くオールコックに協力しなかったため、立腹して「ヨーロッパの人間の屑」と言い表している。
- ^ a b The Capital Of The Tycoon Vol I SIR RUTHERFORD ADCOCK
- ^ 宮永(2005)
- ^ 『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とあり、オールコック一行は7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂したらしい。
- ^ 日本とイギリスの懸け橋となった“おもてなしの心” <オールコックの碑と愛犬トビーの墓>【熱海市】 - 伊豆新聞 2015/7/9
- ^ オールコック銘板、大湯へ - 熱海市観光協会 2018/1/26
- ^ この時の様子は『富士登山と熱海の硫黄温泉訪問』として日本でも出版されている。
- ^ 江戸帰還の交渉のためのに酒井忠眦が横浜へ派遣され、ラザフォードらは幕府から満足できる回答を得たとして江戸に戻った。が、実際には、オールコックが面子を失わないように江戸へ戻る手配をしたのは、ハリスであった。
- ^ もっとも、南北戦争の影響もあり、日本に対するアメリカの影響力は急速に低下した。ハリスは翌年4月に帰国し、その後日本における外国勢力の中心は英仏に移った。
- ^ The Capital Of The Tycoon Vol I by Sir Rutherford Alcock, Chap. XXI. A MORAL PROBLEM.
- ^ 横浜鎖港など到底実現不可能なため、フランスと交渉しただけで一行は帰国した。この際フランスとパリ約定を結び、関門海峡の自由通航を保証するとしたが、これも幕府の手では実現できず、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国による下関砲台の占領にいたる。もっとも、この使節の真の目的は井土ヶ谷事件でフランス軍人が殺害されたことに対する謝罪交渉であり、横浜鎖港談判は名目であるとの説もある。
- ^ 帰国の途次に下関に立ち寄り、長州征討を間近に控えた伊藤博文に会っている。
- 1 ラザフォード・オールコックとは
- 2 ラザフォード・オールコックの概要
- 3 著作(日本語訳)
- 4 外部リンク
固有名詞の分類
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