ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナの意味・解説 

ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ

(ヨハン・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/17 03:30 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ヨハン・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
Johann Salvator von Österreich-Toskana
ハプスブルク=ロートリンゲン家
ヨハン・ザルヴァトール大公(1878年)
称号 トスカーナ大公子、オーストリア大公、ハンガリー王子、ボヘミア王子、クロアチア王子など(のち皇籍離脱)
敬称 殿下(のち皇籍離脱)
出生 (1852-11-25) 1852年11月25日
トスカーナ大公国 フィレンツェ
死去 1890年
父親 トスカーナ大公レオポルド2世
母親 マリア・アントニア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
テンプレートを表示

ヨハン・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナドイツ語: Johann Salvator von Österreich-Toskana1852年11月25日 - 1890年?)は、ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。のち皇籍離脱してヨハン・オルトJohann Orth)と名乗った。航海の旅に出て、南アメリカホーン岬で遭難し、行方不明になった[1]

生涯

トスカーナ大公レオポルド2世とその妻である両シチリア王女マリア・アントニアとの間に、第十子(五男)として生まれた。

オーストリア皇太子ルドルフと親しく、プロイセン嫌いで、親ロシアの立場こそがハプスブルク君主国にとって望ましいとの考えを持っていた[2]オーストリア=ハンガリー帝国の軍隊制度や教育制度、外交方針、さらには旧時代的な社会全般にも反発し、(才能豊かながらも)しばしば叱責を受けるハプスブルク家の問題児であった[2][1]

出典

  1. ^ a b 江村(2013) p.277
  2. ^ a b 江村(2013) p.197

参考文献

関連書籍

ウィキメディア・コモンズには、ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナに関するカテゴリがあります。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヨハン・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS