ヤロスラフ・イングヴァレヴィチとは? わかりやすく解説

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ヤロスラフ・イングヴァレヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 09:18 UTC 版)

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ヤロスラフ・イングヴァレヴィチ
Ярослав Інґварович
メジュィボジュ公
在位 1228年 - ?

死去 1229年以降
配偶者 スモレンスク公ロマン・ロスチスラヴィチの娘
子女 ボリス
家名 リューリク家
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ヤロスラフ・イングヴァレヴィチウクライナ語: Ярослав Інґварович、? - 1229年以降)は、イングヴァリ・ヤロスラヴィチの4人の息子のうちの1人である。シュムスク公(在位:1223年 - 1227年)、ルーツク公(在位:1227年 - 1228年)、メジュィボジュ公(在位:1228年 - ?[1][注 1])。

生涯

1228年カルカ河畔の戦いで、ヤロスラフの2人の兄(ドロゴブージ公イジャスラフシュムスク公スヴャトスラフ)は戦死した。また、1227年に従弟のルーツクイヴァンが死んだ後、ヤロスラフはルーツクを得た。しかしすぐさまヴォルィーニ公ダニールによって追放され、代わりにペレムィシュリとメジュィボジュを得た[2]1230年にはダニールがガーリチへの遠征を行い、弟のウラジーミルはこれに加わったが、ヤロスラフは参加していない。

モンゴルのルーシ侵攻の最中には、カメネツにおいて、キエフからハンガリーへ逃亡中のキエフ大公ミハイルの家族を捕獲した。

なお、『ラヴレンチー年代記』においては、ウラジーミル大公ヤロスラフと混同された記述がみられる[3]

妻子

妻はスモレンスク公ロマン・ロスチスラヴィチの娘[要出典]。子の名はボリス。

脚注

注釈

  1. ^ 都市に関してはシュムスク、メジュィボジュ(ru)を参照されたし。

出典

  1. ^ Л.Войтович. 3.15.ВОЛИНСЬКА ГІЛКА МОНОМАХОВИЧІВ. БОЛОХІВСЬКІ КНЯЗІ. КНЯЗІ ОСТРОЗЬКІ ТА ЗАСЛАВСЬКІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ Львів,2000.
  2. ^ Ярослав Ингваревич // ブロックハウス・エフロン百科事典、サンクトペテルブルク、1890—1907。
  3. ^ Карамзин Н. М. История государства Российского

外部リンク

先代:
イヴァン
ルーツク公
1227年 - 1228年
次代:
ヴァシリコ



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