メアリー・ヴィリアーズ_(バッキンガム女伯)とは? わかりやすく解説

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メアリー・ヴィリアーズ (バッキンガム女伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/26 14:38 UTC 版)

メアリー・ヴィリアーズ
Mary Villiers
バッキンガム女伯
ジョージ・パーフェクト・ハーディングの絵をもとにジェームズ・ストウが版画で制作したバッキンガム女伯メアリー・ヴィリアーズの肖像画(1814年)
在位 1618年7月1日 - 1632年4月19日

全名 メアリー・ボーモント
出生 1570年ごろ
死去 1632年4月19日
埋葬 イングランド王国ウェストミンスター寺院
配偶者 サー・ジョージ・ヴィリアーズ
  サー・ウィリアム・レイナー
  サー・トマス・コンプトン
子女 スーザン
ジョン
ジョージ
クリストファー
家名 ボーモント家
父親 アンソニー・ボーモント
母親 アン・アームストロング
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バッキンガム女伯メアリー・ヴィリアーズ(旧姓:ボーモント、Mary Villiers, Countess of Buckingham, née Beaumont, 1570年ごろ - 1632年4月19日)は、イングランド貴族の女性。王の寵臣、初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの母として知られる。

家族

メアリー・ボーモントは、レスターシャーのグレンフィールドのアンソニー・ボーモント(ヘンリー・ド・ボーモントの直系子孫)と、その妻アン・アームストロング(コービーのトマス・アームストロングの娘)の娘として生まれた。

最初の妻オードリー・サンダースが1587年5月1日に亡くなった後、彼女はサー・ジョージ・ヴィリアーズの2番目の妻となった。ジョージ・ヴィリアーズは、リチャード・ボーモントの未亡人である母コレットを通して、メアリーの従兄弟にあたった。二人の間には4子が生まれた。

  • スーザン(1583年 - 1651年) - 初代デンビー伯ウィリアム・フィールディングと結婚
  • ジョン(1590年頃 - 1658年) - 初代パーベック子爵
  • ジョージ(1592年 - 1628年) - 初代バッキンガム公
  • クリストファー(1593年頃 - 1630年) - 初代アングルシー伯

夫サー・ジョージ・ヴィリアーズの死後、1618年にメアリーは自らの権利でバッキンガム女伯に叙せられた。メアリーはさらに二度結婚し、1606年にはピーターバラのオートンのサー・ウィリアム・レイナーと、そして最後に初代コンプトン男爵ヘンリー・コンプトンの次男であるサー・トマス・コンプトンと結婚した。メアリーは1620年代初頭、イエズス会士ジョン・パーシーの影響を受けてローマ・カトリックに改宗した[1]

王の寵臣の母

次男のジョージが政治的に重要な人物となる可能性を最初に見抜いたのは、メアリーであったようである[2]。最初の夫と結婚した当時、メアリーは無一文であったと言われているが、何とかして資金を工面し、次男ジョージをフランス宮廷に送り込んだ。そこでジョージは剣術や舞踏といった宮廷の技を学び、フランス語もある程度流暢に話せるようになった。衣装を用意する資金を得た後、メアリーはジョージをイングランド宮廷に送り、そこでジョージは瞬く間にジェームズ1世の寵臣となった[3]

ジョージが成功するにつれ、母、兄弟、そして異母兄たちも共に成功し、1618年にジェームズ1世は、ジョージはヴィリアーズ家の繁栄のためだけに生きていると述べた[3]。メアリーは、ジョージと、イングランドで最も裕福な女性と言われていた大富豪の女性ド・ルース女男爵キャサリンとの結婚を取り仕切った。メアリーの敵対者たちは、メアリーがキャサリンをジョージと同じ屋根の下で夜を過ごすように手配することでキャサリンを結婚に陥れ、その評判に傷をつけ、家族にジョージのプロポーズを受け入れるしか選択肢がないようにしたと主張した。

1619年7月、パーベック子爵夫人フランシス・コークはチャールズ皇太子のためにロンドンサマセット・ハウスの管理人に任命され、バッキンガム女伯メアリー・ヴィリアーズはしばしばサマセット・ハウス、あるいはエリスに滞在した。1622年9月、メアリーは宮廷を離れ、レスターシャーのダルビーの自宅(1617年にサー・エドワード・ノエルから購入)へと向かった[4]。1623年5月、メアリーはパーベック子爵と共にゴードビー・マーウッドに滞在し、ミドルセックス伯に娘フランシス・クランフィールドの誕生を祝う手紙を送った[5]。メアリーはしばしば宮廷に通い、1624年6月19日(国王の誕生日)には、ジェームズ1世と娘デンビー伯爵夫人スーザンと共にワンステッド・ハウスから馬に乗って狩猟に出かけた[6][7]。ジェームズ1世がシオバルズで臨終の床に就いたとき、メアリーは手首に絆創膏を貼る治療を手配した。この処置は医師ジョン・クレイグの怒りを買い、クレイグはメアリーを叱責した。このメアリーへの叱責のために、クレイグは宮廷から退去を命じられた[8]

メアリーは1627年に劇作家のフォークランド子爵エリザベス・ケアリーに50ポンドを貸与した[9]。1628年に次男バッキンガム公が暗殺されたとき、メアリーはまるでずっと前から予期していたことであるかのように、驚きの表情も見せなかったと言われている。メアリーの個人的な感情がどうであれ、バッキンガム公の死後、メアリーは表向き、ほとんどの人にとって冷たく無情な態度を示した。メアリーは4年後に亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬された。

メアリーは並外れた強さを持った女性であったが、容赦ない野心と貪欲さから、決して人気者になることはなかった。若い頃は美しかったものの、宮廷ではメアリーの振る舞いは騒々しく、無神経であると思われていた[3]

ジェームズ・ストウは1814年に、ジョージ・パーフェクト・ハーディングが描いたメアリーの絵を版画にした[10]

文化におけるメアリー・ヴィリアーズ

17世紀後半の著作、例えばロジャー・コークの『イングランドの宮廷と国家の探知』(ロンドン、1697年)には、メアリー・ヴィリアーズが最初はジョージ・ヴィリアーズの厨房で召使として働き、その後、妻のメイドになったことが記されている。コークによると、1615年、ジェームズ1世がニューマーケット宮殿に滞在していた際、メアリーは息子ジョージをケンブリッジで上演された『イグノラムス』という劇に立たせ、国王がそれを鑑賞したことで息子のキャリアが始まったという[11][12]

2024年、イギリスの歴史ドラマ・ミニシリーズ『メアリー&ジョージ』においてジュリアン・ムーアがメアリー・ヴィリアーズを演じた。この作品は、ベンジャミン・ウーリーの著書『王の暗殺者』(2017年)を原作とし、D・C・ムーアが企画、オリバー・ハーマナスが監督を務めた。

関連項目

脚注

  1. ^ Trevor-Roper 2000, pp. 59–60.
  2. ^ Kenyon 1966, p. 50.
  3. ^ a b c Kenyon 1966, p. 55.
  4. ^ Birch & Williams 1849, pp. 2, 183, 333.
  5. ^ “Earl de la Warr”. HMC 4th Report. London. (1874). p. 287. https://play.google.com/books/reader?id=MFg-AAAAYAAJ&pg=GBS.PA286&hl=ja 
  6. ^ Jackson 2025, p. 196.
  7. ^ Nichols 1828, p. 980.
  8. ^ Nichols 1828, pp. 1033–4.
  9. ^ Wolfe 2001, p. 305.
  10. ^ Levin & Bertolet 2016, p. 142.
  11. ^ Hore 1886, p. 323.
  12. ^ Coke 1697, pp. 73–74.

参考文献

  • Trevor-Roper, Hugh (2000). Archbishop Laud (2000 ed.) 
  • Kenyon, J.P. (1966). The Stuarts. Fontana 
  • Williams, Thomas (1849). Court and Times of James the First. 2. London: Colburn 
  • “Earl de la Warr”. HMC 4th Report. London. (1874). p. 287. https://play.google.com/books/reader?id=MFg-AAAAYAAJ&pg=GBS.PA286&hl=ja 
  • Jackson, Clare (2025). The Mirror of Great Britain: A Life of James VI and I. Allen Lane 
  • Nichols, John (1828). Progresses of James the First. vol. 4. London 
  • Wolfe, Heather (2001). Elizabeth Cary, Lady Falkland, Life and Letters. RTM 
  • Levin, Carole; Bertolet, Anna Riehl; Carney, Jo Eldridge (2016). A Biographical Encyclopedia of Early Modern Englishwomen: Exemplary Lives and Memorable Acts, 1500-1650 
  • Hore, John Philip (1886). The History of Newmarket: And the Annals of the Turf, 1. Baily 
  • Coke, Roger (1697). Detection of the court and state of England 



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