ムーサー_(イルハン朝)とは? わかりやすく解説

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ムーサー (イルハン朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 07:33 UTC 版)

ムーサー
موسى خان
イルハン朝対立イル・ハン
在位 1336年 - 1337年

死去 1337年
王朝 イルハン朝
父親 アリー(バイドゥの子)
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ムーサーペルシア語:موسى Mūsā, ? - 1337年)は、イルハン朝の対立ハン(在位:1336年 - 1337年)。イルハン朝第6代君主バイドゥの子アリーの息子。ペルシア語資料ではムーサー・ハーン(موسى خان Mūsā Khān)と記される。

生涯

第10代君主のアルパ・ケウンが恐怖政治を行い、アルパの即位に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーによって、1336年に擁立された。アルパが処刑された後単独のハンとなるが、他の傍流一族であるムハンマド[注釈 1]をハンに擁するタージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ(大ハサン)と戦ったが敗れ、後ろ盾のアリーが戦死する[1]

1337年、ホラーサーンの将校アリー・ジャファルに擁立されたトガ・ティムール[注釈 2]と同盟、合流して大ハサンとの戦闘に向かうが、マラーガで大ハサンの軍に遭遇すると、トガ・テムルは戦闘前に軍を連れて逃走した。ムーサーは部下のオイラト部族とともに抗戦するが捕らえられて7月10日に殺された[2]

脚注

注釈

  1. ^ フレグの十一男モンケ・テムルの玄孫
  2. ^ チンギス・カンの実弟・ジョチ・カサルの末裔にあたる

出典

  1. ^ ドーソン 1979, p. 366-367.
  2. ^ ドーソン 1979, p. 368.

参考文献

先代
アルパ・ケウン
イルハン朝のイル・ハン
対立
1336年 - 1337年
次代
ムハンマド



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