ムニオ・ヌニェスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ムニオ・ヌニェスの意味・解説 

ムニオ・ヌニェス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 23:23 UTC 版)

ムニオ・ヌニェス
Munio Núñez
カスティーリャ伯
在位 899年 - 901年ごろ
904年ごろ - 909年ごろ

出生 9世紀
死去 10世紀
子女 ムニアドナ
家名 カスティーリャ家
父親 ヌーニョ・ムニョス
テンプレートを表示
カストロヘリス城

ムニオ・ヌニェススペイン語:Munio Núñez, 生没年不明)は、カスティーリャ伯(在位:899年 - 901年ごろ、904年ごろ - 909年ごろ)[1]。ヌーニョ・ムニョスの息子。父ヌーニョは、824年に妻アルヒロとともにブラニョセラの町に地方特権Carta Puebla de Brañosera』を与えたムニオ・ヌニェス・デ・ブラニョセラの息子とみられる[2][3]

生涯

ムニオに関しては、アマヤの基地からのカストロゲリスの要塞の再移住と防御に関連して、882年に最初に記録されている[4][5]。同年、カスティーリャ伯ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロスは、コルドバのアミール軍からオバレネス山脈のパンコルボ峠を防御していた。ムニオは882年にアル・ムンディル率いるイスラム軍の攻撃を受け逃亡しなければならなかったが、883年までに要塞の改良工事が行われ、新しい壁の背後で抗戦することができた[6][7]

ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロスが885年に死去したとき、その子供たちはおそらくかなり若年であったため、父の跡を継ぐことができなかったとみられる。899年3月1日に、ムニオ・ヌニェスが最初にカスティーリャ伯として確認され[8]、同じ時にゴンサロ・フェルナンデスがブルゴスを統治していた[9]

ムニオは909年2月と7月23日にカスティーリャ伯として再び現れる[10]。912年、ムニオ・ヌニェスはレオン王ガルシア1世がドゥエロ川のほとり沿いの土地の再植民を委託した3人の伯爵の1人であった。ゴンサロ・フェルナンデスは入植者をブルゴス、クルニア、サン・エステバン・デ・ゴルマスに連れてきた。そしてゴンザロ・テレスはオスマに人を住まわせた[11][12]

ムニオはレオン王ガルシア1世の妃ムニアドナの父ともされる[13][注釈 1]。歴史家のマヌエル・カリエド・テヘドは、ガルシア1世の妃はアストゥリアスアルフォンソ3世の弟ヌーニョ・オルドネスの娘であり、ムニアドナはカスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレスの母親であった可能性があるとしている[15]。またフスト・ペレス・デ・ウルベルは、フェルナン・ゴンサレスが母親を通じてアルフォンソ3世と関係があったのではないかとした[3]

脚注

注釈

  1. ^ クラウディオ・サンチェス・アルボルノスはその著書『Orígenes de la Nación Española』において、ムニアドナはムニオ・ヌニェスの娘であった可能性があるとしている(アルボルノスはムニオのことをヌーニョと呼んでいる)[14]

出典

参考文献

先代
ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロス
カスティーリャ伯
899年 - 901年ごろ
次代
ゴンサロ・テリェス
先代
ゴンサロ・テリェス
カスティーリャ伯
904年ごろ - 909年ごろ
次代
ゴンサロ・フェルナンデス



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ムニオ・ヌニェスのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ムニオ・ヌニェス」の関連用語

ムニオ・ヌニェスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ムニオ・ヌニェスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのムニオ・ヌニェス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS