ムスチスラフ・ユーリエヴィチ_(ノヴゴロド公)とは? わかりやすく解説

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ムスチスラフ・ユーリエヴィチ (ノヴゴロド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:11 UTC 版)

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ムスチスラフ・ユーリエヴィチ
Мстислав Юрьевич
ペレソプニツァ公
ノヴゴロド公
ムスチスラフ・ユーリエヴィチの結婚
在位 ペレソプニツァ公:1150年
ノヴゴロド公:1156年 - 1157年

死去 1161年以降
配偶者 ピョートル・ミハイロヴィチの娘
子女 ヤロスラフ
家名 リューリク家
父親 スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー
母親 クマン人ハンアエパの娘
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ムスチスラフ・ユーリエヴィチロシア語: Мстислав Юрьевич、? - 1161年以降[1])は、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーの子である。ペレソプニツァ公:1150年、ノヴゴロド公:1156年 - 1157年[1]

生涯

父のユーリーの最初のキエフ大公着位(1149年)の後、ユーリーの政敵であるイジャスラフが所領していたペレソプニツァナメストニクに任命された。ユーリーの2度目のキエフ大公着位(1155年)の後はノヴゴロドに配置された。1157年に父が死ぬと、ムスチスラフは他の兄弟の大部分と同じく、ルーシ北東部(ウラジーミル大公国地方)へと帰還した。しかし1161年、兄弟のうちのアンドレイ・ボゴリュブスキーによって、母や兄弟のヴァシリコフセヴォロドらと共にビザンツ帝国へ送られた。ムスチスラフはビザンツ皇帝マヌエル1世に気に入られ、所領を与えられた[2]

家族としては、ノヴゴロドのボヤーレ・ピョートル・ミハイロヴィチの娘と結婚し、ヤロスラフを残している。

出典

  1. ^ a b Л.Войтович 3.17. МОНОМАХОВИЧІ. ЮРІЙОВИЧІ. РОСТОВСЬКА, СУЗДАЛЬСЬКА, МОСКОВСЬКА І ТВЕРСЬКА ГІЛКИ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ CXIДНОЇ ЄВРОПИ ― Львів - 2000
  2. ^ РУСЬ И ВИЗАНТИЯ. Тезисы докладов XVIII Всероссийской научной сессии византинистов. Москва 20–21 октября 2008 года. В. П. Степаненко. [РУСЬ И ВИЗАНТИЯ. Тезисы докладов XVIII Всероссийской научной сессии византинистов. Москва 20–21 октября 2008 года. В. П. Степаненко. «Города на Дунае» в контексте русско-византийских отношений X–XII в. стр. 131 «Города на Дунае» в контексте русско-византийских отношений X–XII в. стр. 131]



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