ミンガン (カンクリ部)とは? わかりやすく解説

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ミンガン (カンクリ部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/18 23:13 UTC 版)

ミンガンモンゴル語: Mingγan、? - 1303年)は、カンクリ部出身で、クビライに仕えた将軍の一人。『元史』などの漢文史料では明安(míngān)と記される。名の「ミンガン」とは、「1千(千人隊長)」の意。

諸族混成部隊たるグユクチ(Güyügči)軍団を率いていたことで知られ、『オルジェイトゥ史』ではグユクチ・ミンガン(Güyügči Mingγan >کیوکجی مینکقانک/kuyūkjī mīnkqānk)の名で記録されている[1][2]

概要

1276年(至元13年)、クビライの命によって「離散して住居を離れた民や、僧侶・道士で籍のない、差徭に当たってない者達」1万人余りを集め、これを「貴赤(グユクチ)」と称して率いることになった[3]。ミンガンはグユクチを率いて職務に精励し、1283年(至元20年)には定遠大将軍・中衛親軍都指揮使の地位を与えられ、1284年(至元21年)にはグユクチ軍を率いて北征した。更に1285年(至元22年)には「貴赤親軍都指揮使司」が設置され、ミンガンはそのダルガチとされた。

同年、ミンガンは8千の兵を率いて北上し、ビシュバリク一帯でカイドゥの軍勢と戦い功績を挙げた[4]1289年(至元26年)にはベクリンの叛乱を討伐する功績を挙げ、1290年(至元27年)にも賊軍の討伐を行い、奪われた家畜などを奪還した[5]

1292年(至元29年)には定遠大将軍・貴赤親軍都指揮使司ダルガチに昇格となり、またビシュバリクに現れた賊軍4千を討伐する功績を挙げた。1298年(大徳2年)、ミンガンは再び兵を率いて北上しカイドゥ軍と対峙したが、それから5年後の1303年(大徳7年)に軍中で亡くなった[6]

『東方見聞録』における記述

ヴェネチア出身で大元ウルスまで旅行したマルコ・ポーロもミンガンの存在について言及している。

宿衛の諸士の中に、バヤンとミンガンという兄弟がいる。この両兄弟はクイウチ(=グユクチ)、すなわち『猛犬の世話係』という職務を帯びている。両人は各々一万人の配下を有しているが、この両部隊はそれぞれ一方は朱色の、他方は黄色の衣装をそろえて身につける。彼らがカアンに昼従して狩猟に赴く際には、いつもこのそろいの制服を着用する。この一万人部隊の中で、それぞれ二千人が一人当たり一匹か二匹、 ないしはそれ以上の猛犬を預って世話しているのだから、猛犬の総数は莫大な数に上ろうというものである。 カアンが出猟する時には、この両兄弟は各自に一万人の部下と五千頭の猟犬を引き具してカアンの両側に随行する。最初の間、彼らは互いにさほど遠くもない間隔を保ちつつ並行するが、その占める範囲は約一日行程ばかりに相当する地域である。次いで次第に寄り集まってこの範囲を狭めてくる。この包囲にかかった野獣どもは、それこそ一匹も逃れ去ることはできない。この狩猟のありさま、猟犬と猟人たちの働き振りときたら、全く驚嘆に値する光景である……。 — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[7]

この記述によると、グユクチは単なる軍事集団であるだけでなく、猟犬の飼育管理を行う集団であったという。実際に、ミンガン同様カンクリ部出身のアシャ・ブカはシバウチ(鷹匠)軍団を率いて武功を挙げ、後にはこのシバウチ軍団を基盤とする広武康里侍衛親軍の指揮官(都指揮使)に任ぜられている。アシャ・ブカのシバウチ軍団(後の康里衛)、ミンガンのグユクチ軍団(後の貴赤衛)はともに平時は大元ウルス皇帝への狩猟奉仕を行い、戦時には特技を活かした特殊訓練部隊を組織する、類似した軍団であったと考えられている[8]

なお、ミンガンの兄弟バヤンについては『元史』などの漢文史料に全く記述がないが、ポール・ペリオは『集史』「クビライ・カアン紀」に西北方面の武将として記録される人物(綴字が判読困難であるが、ペリオはBayan Güyügčiと読む)と同一人物であろう、と指摘する[9]

子孫

ミンガンにはテゲテイ(帖哥台)とブラルキ(孛蘭奚)という2人の息子がいた。

テゲテイ

テゲテイは昭勇大将軍・貴赤親軍都指揮使司ダルガチの号を授かり、父のミンガンの後を継いだ。後にはトゥメン(万人隊長)に昇格となり、貴赤親軍の長官職は叔父のトデに任せて自らは中衛親軍都指揮使となり、最終的には銀青栄禄大夫・平章政事の地位にあった。

テゲテイにはブヤン・クリ(普顔忽里)とシャンジュ(善住)という息子がおり、ブヤン・クリは懐遠大将軍・貴赤親軍都指揮使司ダルガチの地位にあった。シャンジュは宿営(ケシク)に入った後、中書直省舎人・諸色人匠ダルガチを歴任し、奉議大夫・僉中衛親軍都指揮使司事の地位にあった。1328年(天暦元年)に「天暦の内乱」が勃発すると、シャンジュはエル・テムル率いる大都派につき、檀州の防御に活躍した。また、その後はノカイら11人の家人とともに遼王トクトの軍勢と戦ってこれを撃退し、84人の捕虜を得て帰還したため、エル・テムルより賞賛されたという[10]

ブラルキ

ミンガンの次男をブラルキと言い、昭武大将軍・中衛親軍都指揮使の地位にあった。後に官職は銀青栄禄大夫・太尉にまで至った。『オルジェイトゥ史』には「グユクチ・ミンガンの息子のブラルキ(Buralγi >بلارغی/blārghī)」として登場し、バルス・クルに駐屯してチャガタイ・ウルスのクトクの軍勢と対峙していたことが記されている[11]

ブラルキにはサンウスン(桑兀孫)とキタカイ(乞答海)という2人の子供がおり、最初はサンウスンが後を継いで中衛親軍都指揮使となったが早世したため、弟のキタカイがその地位を継承した[12]

カンクリ部ミンガン家

  • 貴赤親軍都指揮使司ミンガンGüyügči Mingγan >貴赤明安/guìchì míngān,کیوکجی مینکقانک/kuyūkjī mīnkqānk)
    • テゲテイ(Tegetei >帖哥台/tiègētái)
      • 懐遠大将軍ブヤン・クリ(Buyan quli >普顔忽里/pŭyánhūlǐ)
      • 中衛親軍都指揮使シャンジュ(Šangǰu >善住/shànzhù)
    • ブラルキ(Buralγi >孛蘭奚/bólánxī,بلارغی/blārghī)
      • 中衛親軍都指揮使サンウスン(Sangusun >桑兀孫/sāngwùsūn)
      • 中衛親軍都指揮使キタカイ(Qitaqai >乞答海/qǐdáhǎi)
  • バヤン(Bayan Güyügči)

脚注

  1. ^ 杉山2004,48頁
  2. ^ 大塚修ほか2022,369-370頁
  3. ^ 「グユクチ」とは「早足、健脚」を意味するモンゴル語。『輟耕録』では「貴由赤は、快行、是なり」と記される(『輟耕録』巻1「貴由赤者、快行是也。毎歳一試之、名曰放走。以脚力便捷者膺上賞、故監臨之官、斉其名数而約之以縄、使無後先参差之争、然後去縄放行。在大都、則自河西務起程。若上都、則自泥河児起程。越三時、走一百八十里、直抵御前、俯伏呼万歳。先至者賜銀一餅、餘者賜段匹有差」)
  4. ^ 『元史』巻135列伝22明安伝「明安、康里氏。至元十三年、世祖詔民之蕩析離居及僧道・漏籍諸色人不当差徭者万餘人充貴赤、令明安領之。明安歳扈駕出入、克勤于事。二十年、授定遠大将軍・中衛親軍都指揮使。明年、賜佩虎符、領貴赤軍北征。又明年、立貴赤親軍都指揮使司、命為本衛達魯花赤。尋奉旨領蒙古軍八千北征、明年、至別失八剌哈思之地、与海都軍戦有功」
  5. ^ 『元史』巻135列伝22明安伝「二十六年冬十二月、別乞憐叛、劫取官站脱脱火孫塔剌海等、明安率衆追撃之、五戦五捷、悉還之。至杭海、強民闊闊台・撒児塔台等率衆作乱、奪三站地、劫脱脱火孫、明安引兵又追撃之、却其軍。二十七年秋七月、布四麻・当先別乞失・出春伯駙馬・兀者台・朶羅台・兀児答児・塔里雅赤等掠四怯薛牛馬畜牧、及劫滅烈太子昔博赤並斡脱・布伯各投下民殆尽。明安将兵追撃于汪吉昔博赤之城、賊軍敗走、還所掠之民並獲其牛馬畜牧等以帰。時出伯・伯都所領軍乏食、奉旨以明安所獲畜牧済之」
  6. ^ 『元史』巻135列伝22明安伝「二十九年、以功陞定遠大将軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。時別失八剌哈孫盗起、詔以兵討之、戦于別失八里禿児古闍、有功、賊軍再合四千人於忽蘭兀孫、明安設方略与戦、大敗之。大徳二年、復将兵北征、与海都戦。七年、歿于軍。子曰帖哥台、曰孛蘭奚」
  7. ^ 愛宕1970,234頁より引用
  8. ^ 杉山2004,352-353頁
  9. ^ 杉山2004,353頁
  10. ^ 『元史』巻135列伝22明安伝「帖哥台、初為昭勇大将軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。及改充万戸、則以其叔父脱迭出代之。帖哥台後以万戸改中衛親軍都指揮使、進銀青栄禄大夫・平章政事。子曰普顔忽里、曰善住。普顔忽里、懐遠大将軍・貴赤親軍都指揮使司達魯花赤。善住、初直宿衛、歴中書直省舎人・諸色人匠達魯花赤、遷奉議大夫・僉中衛親軍都指揮使司事。天暦元年九月、賜佩一珠虎符、従丞相燕帖木児禦敵檀州等処、又率其家人那海等一十一人、自出乗馬与遼軍戦、却其軍、俘八十四人以帰。丞相嘉之」
  11. ^ 大塚修ほか2022,369-370頁
  12. ^ 『元史』巻135列伝22明安伝「孛蘭奚、昭武大将軍・中衛親軍都指揮使、積官銀青栄禄大夫・太尉。子桑兀孫、中衛親軍都指揮使。桑兀孫卒、弟乞答海襲職」

参考文献

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 大塚修ほか訳注『カーシャーニー オルジェイトゥ史──イランのモンゴル政権イル・ハン国の宮廷年代記』名古屋大学出版会、2022年


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