ミルコ・ペトロヴィチとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > ペトロヴィチ=ニェゴシュ家 > ミルコ・ペトロヴィチの意味・解説 

ミルコ・ペトロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 03:17 UTC 版)

ミルコ・ペトロヴィチ
Мирко Димитрије Петровић
ペトロヴィチ=ニェゴシュ家

称号 グラホヴォ=ゼータ大公
出生 (1879-04-17) 1879年4月17日
モンテネグロ公国ツェティニェ
死去 (1918-05-02) 1918年5月2日(39歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
配偶者 ナタリヤ・コンスタンティノヴィチ
子女 ミハイロ
父親 モンテネグロ王ニコラ1世
母親 ミレナ・ヴコティッチ
宗教 キリスト教正教会
テンプレートを表示

ミルコ・ディミトリエ・ペトロヴィチМирко Димитрије Петровић, 1879年4月17日 - 1918年5月2日)は、モンテネグロ王国の王族。モンテネグロ王ニコラ1世と王妃ミレナ・ヴコティッチの次男。グラホヴォ=ゼタ大公の儀礼称号を有した。

生涯

1902年7月25日にツェティニェにおいて、セルビア公ミロシュ・オブレノヴィッチの弟の曾孫にあたるナタリヤ・コンスタンティノヴィチ(1882年 - 1950年)と結婚した。この結婚に際し、セルビア王アレクサンダル1世が子供のないまま死んだ場合、オブレノヴィッチ家の血を引くナタリヤと結婚したミルコがセルビア王位を継ぐ、とする協定がセルビアとモンテネグロの両政府の間で締結された。しかし1903年、アレクサンダル1世夫妻が5月クーデタにより暗殺された際、オブレノヴィッチ家とセルビア君主の座を争っていたカラジョルジェヴィチ家がセルビア王位を獲得したため、ミルコがセルビア王位に就くことは出来なかった。

ミルコは1911年にセルビア人民族主義組織の黒手組に入った。モンテネグロ王国が実質的に崩壊した直後の1917年、ミルコは妻ナタリヤと離婚し、翌1918年にウィーンで客死した。ナタリヤの元に引き取られた息子のミハイロは、1921年に伯父の元王太子ダニロからモンテネグロ王家家長の地位を譲られている。

子女

妻ナタリヤとの間に5人の息子をもうけた。

  • シュチェパツ(1903年 - 1908年)
  • スタニスラヴ(1905年 - 1908年)
  • ミハイロ(1908年 - 1986年) - モンテネグロ王家家長
  • パヴレ(1910年 - 1933年)
  • エマヌエル(1912年 - 1928年)




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ミルコ・ペトロヴィチ」の関連用語

ミルコ・ペトロヴィチのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ミルコ・ペトロヴィチのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのミルコ・ペトロヴィチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS