ミルコ・ジュロヴスキーとは? わかりやすく解説

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ミルコ・ジュロヴスキー

(ミルコ・ジュロフスキ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 12:28 UTC 版)

ミルコ・ジュロヴスキー
名前
ラテン文字 Milko DJUROVSKI
キリル文字 Милко Ѓуровски
基本情報
国籍 北マケドニア
生年月日 (1963-02-26) 1963年2月26日(62歳)
出身地 テトヴォ
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1986 FKレッドスター 115 (54)
1986-1990 FKパルチザン 70 (39)
1990-1992 FCフローニンゲン 57 (23)
1993 SCカンブール 7 (0)
1993-1994 FCフローニンゲン 14 (5)
1994-1995 ニーム 4 (0)
1995-1996 NKジェリズニチャル
2005-2006 NKオリンピア・リュブリャナ 1 (0)
代表歴
1984-1985 ユーゴスラビア 6 (2)
1994 北マケドニア 3 (0)
監督歴
2006-2007 NKナフタ
2007-2008 NKマリボル
2008 FKヴァルダル
2009 FKバレシカ
2010 NKドラヴァ・プトゥイ
2012 ペラウ
2015 FC ViOnズラテー・モラフツェ
2015 NKザヴルチ
2016 FKスラビア
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1984 ロサンゼルス サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ミルコ・ジュロヴスキーマケドニア語: Милко Ѓуровски[1]1963年2月26日 - )は、ユーゴスラビア出身の元同国代表、元マケドニア共和国代表サッカー選手、指導者。

兄のボスコ・ジュロヴスキーとともにレッドスター・ベオグラードの中心選手として8年間活躍。1984年からはユーゴスラビア代表にも選出され、ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。

1986年に同じ都市に本拠を置くライバルクラブであるパルチザン・ベオグラードへ移籍。パルチザンのファンからは歓迎を受けたが、レッドスターのファンは彼を裏切り者と非難した。パルチザン退団後はFCフローニンゲンニーム・オリンピックと西側諸国のクラブを渡り歩き、スロベニアでのプレーを最後に引退。

引退後はNKナフタ・レンダヴァで指導者としてのキャリアをスタートさせたが、成績は低迷。2007年ホームのNKドムジャレ戦にて0対6と大敗した後に解任された[2]。2009-10シーズンはマケドニア2部FKバレシカの監督を務めた[3]

息子のマリオ・ジュロヴスキーも同じく元マケドニア共和国代表サッカー選手[4]、指導者である。

出典

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