マリー・ゾフィー (両シチリア王妃)
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マリー・ゾフィー・アマーリエ・イン・バイエルン(Marie Sophie Amalie in Bayern, 1841年10月4日 - 1925年1月19日)は、両シチリア王フランチェスコ2世の王妃。ガブリエーレ・ダンヌンツィオに「厳格なバイエルンの小鷲」、マルセル・プルーストに「ガエータ城塞の戦士女王」と呼ばれた。イタリア語名はマリーア・ソフィア・ディ・バヴィエラ(Maria Sofia di Baviera)。
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生い立ち
バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系に属するバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフと妃ルドヴィカ・マリア王女の娘として、ミュンヘンで生まれた。姉にヘレーネとオーストリア皇后エリーザベトがいる。
結婚と即位
1859年2月、王太子フランチェスコと結婚した。その年のうちに義父フェルディナンド2世が没し、夫の即位にともない王妃となった。
イタリア統一と両シチリア王国の滅亡
1860年9月、ジュゼッペ・ガリバルディの軍勢が首都ナポリに押し寄せると、王はカプアで体勢を立て直そうと逃走した。しかし、カプアはヴォルチュルヌスの戦いでガリバルディ軍に陥落させられ、王と王妃はナポリ北80キロにある強固な要塞ガエタへ立てこもった。
1860年暮れから1861年初めまで行われたガエタ攻略で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の勢力は砲撃され、すぐに後退を余儀なくされた。『ブルボン家最後の砦』を守った『戦う王妃』という高い名声を、この時からマリー・ゾフィーは得ることになった。彼女は精力的に働いて兵士の志気を挙げ、要塞を陥落させようとする敵との死闘の間、傷病者を運び、自身の食物まで分け与えた。
亡命生活
ガエタ陥落と同時に両シチリア王国は瓦解し、国王夫妻はローマへ亡命した。それもつかの間、南の覇者ガリバルディと、北からサルデーニャ王軍がともにローマを目指して進軍してきた。フランチェスコは亡命政府をローマに樹立し、数年の間ヨーロッパ各国と調整を図り王国の復活を目指した。
1870年、ローマはついにイタリア王国のものとなり、フランチェスコとマリー・ゾフィーは再び亡命した。1894年に王は死んだ。マリー・ゾフィーはミュンヘンへいったん戻った後、パリへ移って亡命ブルボン王族らと巻き返しを図った。彼女は新しいイタリア王国が再びバラバラになることを狙い、1900年のウンベルト1世暗殺事件に関わったと噂された。第一次世界大戦の間は、ドイツ・オーストリア側に立って行動していた。この間も、イタリアを負かしてナポリ王国が復活するために、イタリアに対して妨害行為とスパイを行っていると悪評高かった。
家庭生活
マリー・ゾフィーの突出した富と特権は、私生活の不幸で曇った。フランチェスコとの間にできた唯一の子は死産となり、二度と王の子を産めなかった。しかし、1862年にマリー・ゾフィーは双子を出産した。当時彼女はフランチェスコの妻だったが、子供たちの父親はアルマン・ド・ラワイスというベルギー人伯爵だった。双子は、醜聞を恐れたヴィッテルスバッハ家の縁者たちにより、彼女から引き離された。その後1度か2度、監視の中で子供たちと再会したといわれている。1897年、妹ゾフィー・シャルロッテが火災現場から少女たちを助けようとして英雄的な死を遂げた。1898年、姉エリーザベトが、無政府主義者により暗殺された。
1925年、マリー・ゾフィーはミュンヘンで没した。
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