ボライへの臣従/オルドス地方への進出(1458-1465)
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「オロチュ」の記事における「ボライへの臣従/オルドス地方への進出(1458-1465)」の解説
オロチュ(阿羅出)の名は天順2年(1458年)8月より現れ、当時モンゴリア最大の勢力であったハラチン部のボライとともに明朝の甘粛方面に侵攻している。また、2年後の天順4年(1460年)にはボライや東方の有力者モーリハイとともに再び明朝の甘粛方面に侵攻し、明軍と干戈を交えている。 天順5年及び7年(1461年.1463年)にはオロチュは「タイシ(太師)」と称したボライとマルコルギス・ハーンによって使者として明朝に派遣され、オロチュは明朝に「ボライ配下の大頭目(孛来下大頭目)」として知られるに至った。
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