ベアトリス・イエロニム・ド・ロレーヌとは? わかりやすく解説

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ベアトリス・イエロニム・ド・ロレーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 04:03 UTC 版)

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ベアトリス・イエロニム・ド・ロレーヌ
Béatrice-Hiéronyme de Lorraine
フォンタンジュ風髪飾りを付け、腰当てリボン付きドレスを着たリルボンヌ姫

出生 (1662-07-01) 1662年7月1日
バル=ル=デュック
死去 (1738-02-09) 1738年2月9日(75歳没)
パリ
家名 ギーズ家
父親 リルボンヌ公フランソワ・マリー
母親 アンヌ・ド・ロレーヌ
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ルミルモン修道院長としての正装姿

ベアトリス・イエロニム・ド・ロレーヌBéatrice-Hiéronyme de Lorraine, 1662年7月1日 - 1738年2月9日)は、ブルボン朝時代フランスの貴族女性。ルミルモン女子修道院英語版院長。宮廷での通称はリルボンヌ姫(Mademoiselle de Lillebonne)。

生涯

リルボンヌ公フランソワ・マリーと、ロレーヌ公シャルル4世の娘アンヌ(1639年 - 1720年)の間の第2子・長女。ルイ14世王の長男グラン・ドーファンの宮廷に仕え、妹エリザベートと共にドーファンの異母妹ナント姫の友人となった。また、伯父ヴォーデモン公や親類のヴァンドーム公とも親しかった[1]サン=シモン公爵英語版によれば、彼女は父の従弟シュヴァリエ・ド・ロレーヌと内縁関係にあったとされる。

1686年モデナ公フランチェスコ2世から求婚されたが、縁談を後押ししていたルイ14世王の気が変わってしまったため、破談となった[2]。その後も独身を通し、1705年ルミルモン帝国修道院の補佐修道院長となり、1711年正式に修道院長に就任した。

引用・脚注

  1. ^ Goldhammer, Arthur, Saint-Simon and the court of Louis XIV [Translated memoirs of Saint-Simon], The University of Chicago Press, London, 2001, p.33
  2. ^ Jonathan Spangler (2009). The Society of Princes: The Lorraine-Guise and the Conservation of Power and Wealth in Seventeenth-Century France. Ashgate Publishing, Ltd.. p. 246. ISBN 0754658600 

参考文献

  • Georges Poull, La maison ducale de Lorraine, 1991
先代:
エリザベート・シャルロット・ド・ロレーヌ
ルミルモン帝国修道院長
1711年 - 1738年
次代:
アンヌ・シャルロット・ド・ロレーヌ



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