フレッド・オとは? わかりやすく解説

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フレッド・オ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 04:43 UTC 版)

フレッド・オ
生誕 1919年7月15日
アメリカ合衆国アイダホ州
死没 (2015-09-06) 2015年9月6日(96歳没)
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴 1938-1946
最終階級 少佐
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フレッド・オFred F. Ohr프레드 오)は、アメリカ合衆国軍人歯科医師韓国系アメリカ人第二次世界大戦でドイツ軍機を6機撃墜したエースパイロット

生涯

1919年7月15日、アイダホ州に生まれる[1]。6歳の時に郵便局の複葉機を見てパイロットになりたいと願い、母も「願いが十分に強ければ、それは実現する」と応援した。高校の最終学年の時にアイダホ州州兵第116騎兵隊に入隊。程なくして第116騎兵隊は連邦業務英語版に編入され、騎兵隊から砲兵隊に改編された。これによりオは2年間大学に通うことができた。1940年秋までに軍曹に昇進し、ワイオミング州シャイアンフォートフランシス E.ワーレンで無線通信士として勤務していた。その間、戦闘機パイロットになることを目指していたが、有色人種に対する偏見によりその機会は訪れなかった。同僚の陸軍航空隊入隊試験に同行した際、理由は不明だが大佐が航空士官候補生の願書を渡してきた。オも試験を受けて合格し、1941年9月に正式な航空士官候補生となった。

1942年に卒業したものの、陸軍航空隊第68資材業務隊(68th Material Service Squadron)に配属され[1] 地上要員として勤務していた[2]

翌1943年、北アフリカ戦線に展開する第52戦闘航空群第2戦闘飛行隊に転属し、やっと戦闘機に搭乗することができた[2]。オの乗機はスピットファイアで、同年4月9日、西ケルアンJu-88を撃墜[3]。これが最初の戦果であった[3][4]。アフリカの枢軸軍壊滅後の1944年春、新たに配備されたP-51に乗り換え、ルーマニア戦線に参加。5月31日、プロイェシュティの油田を攻撃する作戦でBf-109を撃墜[5]。6月11日には、第47中型爆撃航空団英語版47th Bomb Wing)のB-24によるコンスタンツァの貯油施設攻撃作戦にて護衛任務につき、1機を撃墜[6]。6月16日にも同団の護衛任務でBf-109を撃墜[7]。9月、第2戦闘飛行隊長(大尉)に昇進した[8]

1944年10月12日、第52戦闘航空群はハンガリーの敵飛行場を攻撃する任務に参加し、第5戦闘飛行隊が先導し、第4戦闘飛行隊が後続、第2戦闘飛行隊は高所を援護していた[9]。目標地域は濃い煙霧がかかっていた[9]。攻撃部隊である第5、第4飛行隊が空戦と対地攻撃を行っている間にフレッド・オは目標とは違う飛行場を攻撃していると判断し、自身の隊のマスタング6機を先導し、180度方向転換して目標に近づいた[9]。飛行場に到着する前に6台のトラック、バス、機関車を攻撃し、次に飛行場を繰り返し攻撃した[9]。この任務でのリーダーシップと率先により、殊勲飛行十字章を授与された[10]

1944年10月14日、第52戦闘航空群はブレヒハマー英語版への護衛任務が進行中であったが、目標地に向かう途中で任務中止の連絡を受けた[10]。しかし離陸中の第2戦闘飛行隊には無線の調子が悪かったために伝わらず、そのまま出撃してしまった[11]。目標の飛行場に到達すると、多数の飛行機が駐機しており、攻撃を開始した[11]。弾薬を使い果たし、炎上する機体で覆われた飛行場を後にして帰還した。激怒した航空群指揮官は軍法会議にかけると脅されたが、幸いにも冷静な判断により軍法会議は忘れられた[12]

1944年11月1日、休息のための帰還命令を受けて帰国し[13]、同月をもって飛行隊長を離任[4]。241の戦闘任務に参加し、3機のBf-109及びFw-190Me-210、Ju-88をそれぞれ1機撃墜した[14]

1946年、退役。同年、エスター・カン(Esther Kang)と結婚。カリフォルニア大学バークレー校ノースウェスタン大学歯学部で学び、1950年、シカゴクラーク・ストリート英語版歯科医を開業し、2005年まで営業した[2][15]

勲章

出典

  1. ^ a b Chang & Park 2019, p. 95.
  2. ^ a b c d “한인 치과의사 프레드 오, 2차 대전 땐 전투기 조종사”. 中央日報. (2014年9月1日). https://news.joins.com/article/15703496 2020年4月5日閲覧。 
  3. ^ a b Ivie & Ludwig 2013, pp. 57–58.
  4. ^ a b Fighter Pilots Lived Their Dreams” (英語). Airport Journals. 2012年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月5日閲覧。
  5. ^ Ivie & Ludwig 2013, p. 163.
  6. ^ Ivie & Ludwig 2013, p. 171.
  7. ^ Ivie & Ludwig 2013, p. 178.
  8. ^ Ivie & Ludwig 2013, p. 231.
  9. ^ a b c d Ivie & Ludwig 2013, p. 247.
  10. ^ a b Ivie & Ludwig 2013, p. 249.
  11. ^ a b Ivie & Ludwig 2013, p. 251.
  12. ^ Ivie & Ludwig 2013, p. 252.
  13. ^ Ivie & Ludwig 2013, p. 254.
  14. ^ a b c d Oleson 2012.
  15. ^ Kyu Young Park (2003). Korean Americans in Chicago. Arcadia Publishing 
  16. ^ a b Fred F. Ohr”. Military Times. 2020年4月5日閲覧。

参考

  • James A. Oleson (2012). In Their Own Words - the Final Chapter:True Stories from American Fighter Aces. iUniverse. ISBN 9781450290463 
  • Tom Ivie, Paul Ludwig (2013). Spitfires and Yellow Tail Mustangs:The U.S. 52nd Fighter Group in World War II. Stackpole Books. ISBN 978-0-8117-1312-2 
  • Edward T. Chang, Carol K. Park (2019). Korean Americans:A Concise History. The Young Oak Kim Center for Korean American Studies at the University of California Riverside. ISBN 978-0-9982957-4-9 
  • Fred F. Ohr Collection” (英語). Library of Congress. 2020年4月5日閲覧。
  • Fred F. Ohr” (英語). National Museum of the United States Army. 2025年4月19日閲覧。



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