フリードリヒ・ツー・ヴィート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/18 09:51 UTC 版)
フリードリヒ・ツー・ヴィート Friedrich zu Wied | |
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ヴィート侯 | |
![]() 1910年 | |
在位 | 1907年 - 1919年 |
出生 | 1872年6月27日![]() ![]() |
死去 | 1945年6月18日(72歳没)![]() |
配偶者 | パウリーネ・フォン・ヴュルテンベルク |
子女 | ヘルマン ディートリヒ |
家名 | ヴィート家 |
父親 | ヴィート侯ヴィルヘルム・アドルフ |
母親 | マリー・ファン・オラニエ=ナッサウ |
フリードリヒ・ツー・ヴィート(Friedrich Fürst zu Wied, 1872年6月27日 - 1945年6月18日)は、ドイツのシュタンデスヘル。ヴィート侯(1907年 - 1919年)。
生涯
ヴィート侯ヴィルヘルム・アドルフとその妻でオランダ王子フレデリックの娘であるマリーの間の第1子、長男として生まれた。全名はヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘルマン・オットー・カール(Wilhelm Friedrich Hermann Otto Karl Fürst zu Wied)。伯母のエリーザベトはルーマニア王カロル1世の妃であり、弟のヴィルヘルムは1914年に短期間ながらアルバニア公国の元首を務めた。1907年に父が死ぬとヴィート侯家の家督を継承したが、ドイツ革命に伴う君主制の崩壊により、貴族としての身分と諸特権を失った。
長男で後継ぎのヘルマンは第2次世界大戦中の1941年に東部戦線のジェシュフで戦死した。このため1945年にフリードリヒが死ぬと、侯爵家の家督はわずか14歳の孫フリードリヒ・ヴィルヘルムが継いでいる。
結婚と子女
1898年10月29日にシュトゥットガルトにおいて、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世の娘パウリーネと結婚した[1] 。夫妻は間に2人の息子をもうけた。
- ヘルマン・ヴィルヘルム・フリードリヒ(1899年 - 1941年) - 1930年、シュトルベルク=ヴェルニゲローデ女伯爵マリア・アントニアと結婚
- ディートリヒ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・カール・パウル(1901年 - 1976年) - 1928年、ユーリア・グローテ女伯爵と結婚
脚注
- ^ C. Arnold McNaughton, The Book of Kings: A Royal Genealogy, in 3 volumes (London, U.K.: Garnstone Press, 1973), volume 1, page 226. Hereinafter cited as The Book of Kings
外部リンク
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