ビオランテ・デ・アラゴンとは? わかりやすく解説

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ビオランテ・デ・アラゴン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:23 UTC 版)

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ビオランテ・デ・アラゴン
Violante de Aragón
カスティーリャ王妃
在位 1252年 - 1284年

出生 1236年6月8日
アラゴン王国サラゴサ
死去 1301年
ナバラ王国ロンセスバーリェス
埋葬 ナバラ王国ロンセスバーリェス、サンタ・マリーア教会
結婚 1249年1月29日 バリャドリッド、サンタ・マリーア・マヨール教会
配偶者 カスティーリャアルフォンソ10世
子女 一覧参照
家名 バルセロナ家
父親 アラゴンハイメ1世
母親 ビオランテ・デ・ウングリア
宗教 ローマ・カトリック
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ビオランテ・デ・アラゴン・イ・ウングリア(Violante de Aragón y Hungría, 1236年6月8日 - 1301年)は、カスティーリャアルフォンソ10世の王妃。名前はヨランダ(Yolanda)とも。父はアラゴンハイメ1世、母はハンガリーアンドラーシュ2世の娘ビオランテ・デ・ウングリア

1246年に王太子であったアルフォンソと婚約し、1249年に結婚した。結婚から数年間は子供ができず、一時アルフォンソは離婚も企てていたが、その後は夭逝した2人を除いても、早世した王太子フェルナンド・デ・ラ・セルダ、その弟で王位を継いだサンチョ4世ら10人の子供をもうけている。

子女

  • フェルナンド(生没年未詳) - 夭逝
  • ベレンゲーラ(1253年 - 1284年以降) - ラス・ウエルガス修道院の修道女
  • ベアトリス(1254年 - 1280年) - 1271年、ムルシアでモンフェラート侯グリエルモ7世と結婚。
  • フェルナンド・デ・ラ・セルダ(1255年 - 1275年) - 王太子であったが父より先に死去し、遺児たちを退けて弟サンチョが父から王位を奪った。
  • レオノール(1257年 - 1275年)
  • サンチョ4世(1258年 - 1295年) - カスティーリャ王
  • コンスタンサ(1258年 - 1280年) - ラス・ウエルガス修道院の修道女
  • ペドロ(1260年 - 1283年)
  • フアン(1262年 - 1319年) - バレンシア・デ・カンポス領主
  • イサベル(生没年未詳) - 夭逝
  • ビオランテ(1265年 - 1296年) - ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロと結婚。
  • ハイメ(1266年 - 1284年)



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