バーリンゲーム使節団
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「アンソン・バーリンゲーム」の記事における「バーリンゲーム使節団」の解説
1867年11月27日、バーリンゲームの駐清公使の任期が満了となり、帰国することになった。バーリンゲームは総理各国事務衙門主催の離任の宴席で「もし各国と問題が発生した時は、尽力しよう」と述べた。当時、清朝は外国使節団の派遣を検討していたが、外交に明るい人物が見当たらず苦慮していた。そこで恭親王奕訢はバーリンゲームを使節団の全権代表(弁理中外交渉事務大臣)とするように上奏した。こうしてバーリンゲームは清朝の代表として、アメリカ・イギリス・フランス・プロイセン・ロシアなどを訪問することとなった。 1868年2月25日、使節団30名は上海から「コスタリカ号」に乗船し、アメリカに向かった。使節団には海関道志剛・礼部郎中孫家谷の両名の官僚も含まれていた。
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