ナーエ谷線
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ナーエ谷線 | |
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基本情報 | |
路線記号 | 3511 |
路線番号 | 672.2, 680 |
開業 | 1852年11月 |
運営者 | ドイツ鉄道、vlexx |
路線諸元 | |
路線距離 | 142 km |
軌間 | 1435 mm(標準軌) |
線路数 | 複線 |
複線区間 | 全線 |
電化区間 | ノイブリュッケ - ザールブリュッケン |
電化方式 | 15 kV 16.7 Hz(交流) |
最大勾配 | 24 ‰ |
最小曲線半径 | 222 m |
保安装置 | PZB |
最高速度 | 160 km/h |
ナーエ谷線(ドイツ語: Nahetalbahn)はドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ州ビンゲンとザールラント州の中心地ザールブリュッケンを結ぶ鉄道で、およそ100 kmナーエ川に並行している。全線に複線線路が備えられて、ノイブリュッケ - ザールブリュッケン間は電化されている。ビンゲン - ノイブリュッケ区間はライン=ナーエ鉄道会社(Rhein-Nahe-Eisenbahn-Gesellschaft, RNE)により建設された。マインツ - ザールブリュッケン間の快速列車系統はとても重要で、バートクロイツナッハ - ザールブリュッケン間はその運行区間に当たる。
歴史
1839年にザール地方とライン川中流地域を結ぶ鉄道建設が計画されたが、高い費用のため実行できなかった[1]。ノインキルヒェン - ザールブリュッケ間はプファルツ・ルートヴィヒ鉄道(Pfälzische Ludwigsbahn)を延長する目的で建設されて、1850年にノインキルヒェンは鉄道で連結された。この幹線鉄道はザール地域の石炭をライン川に輸送するために建設された最初の路線となった。プファルツ地域にはザンクトイングベルトを終点とする方案が考えられたものの、ザールブリュッケン方面の鉄道を自国領土で敷設することを望んだプロイセン王国の圧力で放棄された。その故に、プロイセンはベクスバッハから鉄道を延長して、ホルツハウアータールおよびランツヴァイラー=レーデンの炭鉱を鉄道で連結することを計画した[2]。王立ザールブリュッケン鉄道管理局(Königliche Direction der Saarbrücker Eisenbahn)は1852年11月にベクスバッハ - フランス国境線間を、ノインキルヒェンおよびザールブリュッケンの中間地点で開通した[3]。
1856年にRNEが創立されて、目的はザール炭田・ナーエ川・その周辺地域を、ライン鉄道会社区間とヘッセンルトヴィヒ鉄道区間の境界駅ビンゲン橋駅(現在ビンゲン中央駅)と結ぶ鉄道開通であった。建設資金は4 %利子の国家保証で確保されて、プロイセン政府は1856年7月18日契約で鉄道建設を委託して、同年9月4日に建設許可をRNEに与えた[4]。ビンゲン - ノインキルヒェン間の新線はヘッセンホムブルク方伯領およびオルデンブルク大公国一部のビルケンフェルト公国を貫通する予定であった。ビルケンフェルト公国は中心地の経路を希望したがプロイセン区間はナーエ川に並行して建設された。またプファルツはナーエ川から外れたクーゼルに通する経路を考慮した。プロイセンは軍事作戦と交通政策の理由で鉄道経路について合議しようと努めて、オルデンブルクはナーエ川と並行する鉄道の建設方案を受容した。建設工事は1857年に開始されて、1858年7月15日にビンゲン橋駅(現在ビンゲン中央駅) - クロイツナッハ(現在バートクロイツナッハ)間が初めに開通された[5]。ナーエ谷線は1859年12月15日にオーバーシュタイン(現在イダー=オーバーシュタイン)まで延長された。1860年5月26日、オーバーシュタイン - ノインキルヒェン間の開通でザールブリュッケン方面の鉄道が連結された[3]。工事期間に王立鉄道ザールブリュッケン管理局(Königliche Eisenbahndirektion zu Saarbrücken)はビンゲン - ノインキルヒェン間の建設・運営権を引き受けた。この路線は地方の物資補給路となって、ブリーダー川とナーエ川農業地域に産業を促進した。
RNEのビンゲン - ノインキルヒェン間は多数のトンネル、鉄道橋、路盤、切土のため、建設の難しくて高価な鉄道と表現された。建設費用はマイル(およそ7532メートル)当たり100万ターラ以上に相当してアルベルト・マイバッハ(Albert von Maybach, 1822-1904)が財政の災難だと評するほどであった。ザール産石炭輸送の場合、この路線はプファルツ・ルートヴィヒ鉄道と緊密な競争関係にあった。プロイセン政府はプファルツ北西部の交通にナーエ川と近くにするよう影響することを尽力した。ハイムバッハ-クーゼル間の鉄道はその例として開業された[6]。
鉄道開通の後で、会社の収益は期待以下に低くて、温泉街クロイツナッハおよびミュンスター・アム・シュタインのみで旅客列車の乗客が活発に往来した。株式配当金でも利子収入でも利益が発生しなかったので、1866年政府がライン鉄道へ売却する計画は失敗した。しかしこの路線は軍事作戦の分野で重要となって、プロイセン政府により1881年4月1日付きに買収された。1880年4月にビルケンフェルト方面の盲腸線は開通されて、ビルケンフェルト公国の中心地はノイブリュッケ駅から鉄道で連結された。
1901年3月末に二つの電気式信号保安施設はバートミュンスター - キルン間に設置された[7]。軍事戦略の目的で1902年4月にガウアルゲスハイム - クロイツバッハ間は開通されて、クロイツバッハ駅舎と施設物は新たに設置された。旧駅は貨物駅として活用されている。
1914年2月10日に新型の灯列式遠方信号機(Vorsignal)はビンゲン橋駅 - ミュンスター間に設置された[8]。1915年にラウベンハイム - リューデスハイム線は1945年に破壊されたヒンデンブルク鉄道橋と共にナーエ谷線と連結された。1918年1月16日にホッホシュテッテン - キルン間の路盤があらしのためナーエ川により流れて崩れた。観光客向けの列車はその区間を通過した時に脱線して、機関車・貨物車・客車3両が川へ落下した。この事故で38人が死亡して25人が負傷を負った[9]。
ビルトシュトックトンネルの下には炭鉱の安全支柱が設置されて、坑道破損の危険性もあったので、新しいトンネル建設は必要となった。工事は1953年に始まって、1955年に全長341 mのトンネルが半径600 mの曲線形態で完工した。
バートクロイツナッハ - バートミュンスター間は1957年9月29日より三線複線で改修されて[10]、線路は1963年に再び複線に一つ減少した[11]。1967年頃、電信線は部分的に電話線に置き換えられた[12]。1969年に電気運転はテュルキスミューレ - ザールブリュッケン区間で可能となった。1966年10月25日に女性二人・子供3人は、列車が実際に現在のナーボレンバッハ旧駅寸前に止まったものの、列車が駅に到着したと信じて列車から降りた。被害者全員は向こう側から来た列車に轢かれて死亡した[13]。
2007年から2013年までトンネル断面上部の半径を4 mから5 mに拡張する工事が実行されて、イダー=オーバーシュタイン - ノイブリュッケ間に列車は数ヶ月間単線で走行した。2012年夏にビルトシュトックトンネルの補修作業が行われて、快速列車と貨物列車はフィシュバッハタール線を経由して、バスは普通列車の代わりに運行された。2014年夏に電車線はノイブリュッケ - テュルキスミューレ間に設置された。
2014年12月14日にイタリア国鉄系列のvlexx社は快速列車および普通列車系統運営を引き受けた[14]。
運行形態
- RB33: マインツ - インゲルハイム - バートクロイツナッハ - バートミュンスター - ノルハイム - シュタウデルンハイム - バートゾーベルンハイム - モンチンゲン - マルティンシュタイン - ホッホシュテッテン - キルン - キルンズルツバッハ - フィシュバッハ=ヴァイアーバッハ - イダー=オーバーシュタイン。60分ごとに運行。
- RB34: イダー=オーバーシュタイン - クロンヴァイラー - ノーエン - ハイムバッハ町駅 - バウムホルダー。60分ごとに運行。
- RB65: ビンゲン - ミュンスター=ザルムスハイム - ラウベンハイム - ランゲンロンスハイム - ブレッツェンハイム - バートクロイツナッハ - バートミュンスター - ヴィンヴァイラー - カイザースラウテルン。60分ごとに運行。
- RB73: ノイブリュッケ - ノーフェルデン - テュルキスミューレ - ヴァールハウゼン - ナンボルン - ホーフェルト - バルタースヴァイラー - ザンクト・ヴェンデル - オーバーリンクスヴァイラー - ニーダーリンクスヴァイラー - オットヴァイラー - ヴィーベルスキルヒェン - ノインキルヒェン - ランツヴァイラー=レーデン - フリードリヒスタール中駅 - フリードリヒスタール - アルテンヴァルト- ズルツバッハ - ドゥトヴァイラー - イェーガースフロイデ - ザールブリュッケン。60分ごとに運行。
参考文献
- R. Brumm (1987) (ドイツ語). Die Rhein-Nahe-Bahn. Bad Kreuznach: Edition Nahetal. ISBN 3-926421-00-2
- Deutsche Reichsbahn, ed (1984) (ドイツ語). Handbuch der deutschen Eisenbahnstrecken. Mainz: Dumjahn. ISBN 3-921426-29-4。1935年版の再発行。
- Hans-Joachim Emich; Rolf Becker (1996) (ドイツ語). Die Eisenbahnen an Glan und Lauter. Waldmohr: 自費出版. ISBN 3-980491-90-0
- Fritz Engbarth (2009) (ドイツ語), 150 Jahre Eisenbahnen zwischen Bad Kreutznach und Idar-Oberstein 2025年8月22日閲覧。
- Heinz Sturm (2005) (ドイツ語). Die pfälzischen Eisenbahnen. Ludwigshafen am Rhein: Pro Message. ISBN 978-3-934845-26-8.
外部リンク
注釈・出典
- ^ F. Engbarth (2009). p. 5
- ^ H. Sturm (2005). p. 114
- ^ a b Deutsche Reichbahn ed., (1935). Handbuch der deutschen Eisenbahnstrecken, Nr. 1852/12
- ^ Emich, Becker (1996). p. 16
- ^ Deutsche Reichbahn ed., (1935). Handbuch der deutschen Eisenbahnstrecken, Nr. 1858/06
- ^ Emich, Becker (1996). p. 7
- ^ “Bekanntmachung Nr. 139” (ドイツ語). Amtsblatt - Eisenbahndirektion Mainz (Nr. 13): p. 83. (1901年3月23日)
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に余分の文字が入力されています。 (説明)⚠ - ^ “Bekanntmachung Nr. 50” (ドイツ語). Amtsblatt der königlich preußischen und großherzoglich hessischen Eisenbahndirektion in Mainz (Nr. 5): p. 33. (1914年1月24日)
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に余分の文字が入力されています。 (説明)⚠ - ^ Martin Weltner, ed (2008) (ドイツ語). Bahn-katastrophen. München: GeraMond. p. 14. ISBN 978-3-765470-96-7
- ^ “Bekanntmachung Nr. 497” (ドイツ語). Amtsblatt der Bundesbahndirektion Mainz (Nr. 43): p. 248. (1957年9月20日)
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に余分の文字が入力されています。 (説明)⚠ - ^ “Bekanntmachung Nr. 324” (ドイツ語). Amtsblatt der Bundesbahndirektion Mainz (Nr. 43): p. 154. (1963年8月9日)
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に余分の文字が入力されています。 (説明)⚠ - ^ “Bekanntmachung Nr. 299” (ドイツ語). Amtsblatt der Bundesbahndirektion Mainz (Nr. 33): p. 151. (1967年8月18日)
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に余分の文字が入力されています。 (説明)⚠ - ^ Manfred Rauscher; Axel Redmer (2009) (ドイツ語). Idar-Oberstein: Illustrierte Stadtgeschichte 1945-2000. Erfurt. p. 52
- ^ “10 Jahre vlexx” (ドイツ語). Regentalbahn GmbH. 2025年8月22日閲覧。
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