ドゥミトル・プルナリウとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ドゥミトル・プルナリウの意味・解説 

ドゥミトール・プルナリウ

(ドゥミトル・プルナリウ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/01 13:33 UTC 版)

ドゥミトール・プルナリウ
インターコスモス宇宙飛行士
国籍 ルーマニア
生誕 (1952-09-27) 1952年9月27日(72歳)
ブラショヴ
他の職業 飛行士、技術者、外交官
宇宙滞在期間 7日20時間42分
選抜試験 1978 Intercosmos Group
ミッション ソユーズ40号
記章
テンプレートを表示

ドゥミトール・プルナリウ(Dumitru-Dorin Prunariu)は、ソユーズ40号で宇宙を訪れたルーマニア宇宙飛行士である。

生い立ち

1952年9月27日にルーマニアのブラショヴで生まれ、1971年にブラショヴの物理学・数学高校、1976年にブカレスト工科大学を卒業して航空宇宙工学の学位を取った。IARブラショヴのエンジニアとなり、その後1977年にルーマニア空軍の士官学校に通った。

インターコスモス

レオニード・ポポフ(左)とプルナリウ(1981年)

彼は、1978年にインターコスモス計画への参加のための訓練に選ばれた。3年間の訓練で最高の成績を記録し、彼はレオニード・ポポフとの宇宙飛行に選ばれた。1981年5月14日、彼らはソユーズ40号で地球を出発し、サリュート6号での8日間のミッションを成功させた。この間、彼らは天体物理学、宇宙放射線、宇宙技術宇宙医学、生物学等に関する実験を行った。プルナリウは、宇宙を訪れた103人目の人物となった。

5月22日の地球への帰還後、彼はルーマニア英雄とソ連邦英雄を授与され、またレーニン勲章を受章した。

その後

プルナリウは、1992年から国際宇宙航行アカデミーのメンバーとなり、1994年からは国際宇宙空間研究委員会のルーマニア国内組織のメンバーとなった。1985年には宇宙探検家協会に加わり、1993年から2004年までは国連宇宙空間平和利用委員会の宇宙探検家協会の終身代表となった。1996年からは、宇宙探検家協会の評議会員として、3年間の任期を2期務めた。1992年からは、国連宇宙空間平和利用委員会のルーマニア政府代表を務めた。

1998年から2004年までは、ルーマニア宇宙局の局長を務めた(後に名誉局長)。2000年からは地政学の准教授となった。2004年には、国際宇宙平和利用委員会の科学技術小委員会の委員長に選出され、2年間の任期を務めた。2000年12月1日、ルーマニアで最高位の勲章を受章した。

2004年5月から2005年8月まで、プルナリウはルーマニアからロシア連邦への全権大使を務めた。

2007年2月には、少将としてルーマニア国防省を引退したが、同じ階級で文官として働き続けた。

2011年、プルナリウの宇宙飛行30周年を記念した切手が発行された。

出典




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

ドゥミトル・プルナリウのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドゥミトル・プルナリウのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドゥミトール・プルナリウ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS