トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)の意味・解説 

トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 04:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
初代レイヴェンスワース男爵

初代レイヴェンスワース男爵トマス・ヘンリー・リデル英語: Thomas Henry Liddell, 1st Baron Ravensworth1775年2月8日1855年3月8日)は、イギリスの地主、政治家、貴族。イングランド北部に炭鉱を所有する地主で[1]、1806年から1807年まで庶民院議員を務め、1821年戴冠式記念叙勲英語版で男爵に叙された[2]

生涯

第5代準男爵サー・ヘンリー・ジョージ・リデル(1791年11月26日没、初代レイヴェンスワース男爵ヘンリー・リデルの弟トマスの息子)と妻エリザベス(Elizabeth、旧姓スティール(Steele)、トマス・スティールの娘)の息子として、1775年2月8日にカウンティ・ダラムニュートン・ホール英語版で生まれた[2]。1783年から1790年までイートン・カレッジで教育を受けた[1]。1791年11月26日に父が死去すると、準男爵位を継承した[2]。1792年12月12日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1795年にM.A.の学位を修得した[3]

1796年11月25日、ノーサンバーランド副統監の1人に任命された[4]。1804年から1805年までノーサンバーランド州長官英語版を務めた[1]

1795年にブルックス英語版ホイッグ党のクラブ)に加入するなどホイッグ党寄りであり[1]、1801年にカウンティ・ダラム選挙区英語版からの出馬を打診されて辞退したが、1806年イギリス総選挙では出馬して、庶民院議員に当選した[5]。1802年に立候補を取り下げた第2代準男爵サー・ヘンリー・ヴェイン=テンペストはアイルランドからイングランドに赴いて出馬を表明したが、後に健康を理由に取り下げた[5]。ヴェイン=テンペストはリデルが自身の出馬を妨げないという約束を破ったと抗議したが、リデルの当選を阻止するには至らなかった[5]

議会で演説した記録はなく、採決ではホイッグ党内閣である挙国人材内閣英語版を支持した[1]。しかし、内閣がカトリック解放問題により崩壊すると、リデルは1807年イギリス総選挙でカトリック解放反対派の反対に遭った[5]。リデルは国教会支持を表明したが、選挙戦に挑めるほどの資金がなく、対立候補のローランド・バードン英語版も借金を返済しないうちに立候補することを批判されたため、2人は妥協した[5]。この妥協に基づき、リデルとバードンは立候補を取り下げ、お互い受け入れられる候補としてカスバート・エリソン英語版を支持したが、ヴェイン=テンペストは2人の妥協を「州の選挙権を奪うための陰謀」(calculated to rob the county of its elective franchise)と批判、エリソンが落選してヴェイン=テンペストが当選するという結果になった[5]ノーサンバーランド選挙区英語版ではホイッグ党のホーウィック子爵チャールズ・グレイから支持を求められたが、リデルは第2代ノーサンバーランド公爵ヒュー・パーシーとの約束を理由に拒否している[1]

1807年以降は所有する炭鉱や地所の管理に専念し、政治では摂政王太子ジョージに接近した[1]。1796年にエズリントン・パーク英語版の邸宅を増築したほか[6]、1808年にレイヴェンスワース城英語版の旧邸宅を解体した後、建築家ジョン・ナッシュを招聘して、城郭風ゴシック様式でピクチャレスクの概念も取り入れた新邸宅を建てた[7]

1820年に摂政王太子がジョージ4世として国王に即位すると、1821年戴冠式記念叙勲英語版において、1821年7月17日にノーサンバーランド州におけるエズリントンおよびダラム州におけるレイヴェンスワース・キャッスルのレイヴェンスワース男爵に叙された[2][8]。このごろにはホイッグ党と距離をとりはじめ、1820年にはピータールーの虐殺(1819年)に対するジョン・ジョージ・ラムトンの反応を「危険」(dangerous)と評し、第1回選挙法改正の第2次法案(1831年10月)には貴族院で反対票を投じた[9]

1855年3月7日にレイヴェンスワース城英語版で死去、息子ヘンリー・トマス英語版が爵位を継承した[2]

家族

レイヴェンスワース男爵夫人マリア・スザンナ、トーマス・ローレンス画。

1796年3月26日、マリア・スザンナ・シンプソン(Maria Susannah Simpson、1845年11月22日没、ジョン・シンプソンの娘)と結婚、8男8女をもうけた[10]

  • ヘンリー・トマス英語版(1797年3月10日 – 1878年3月19日) - 第2代レイヴェンスワース男爵、初代レイヴェンスワース伯爵[10]
  • マリア(1882年10月20日没) - 1818年8月12日、初代ノーマンビー侯爵コンスタンティン・フィップスと結婚、子供あり[10]
  • フランシス・ジェーン(Frances Jane、1823年11月11日没) - 生涯未婚[10]
  • トマス(1800年 – 1856年3月9日) - 1843年2月28日、キャロライン・エリザベス・バリントン(Caroline Elizabeth Barrington、1890年3月4日没、第5代バリントン子爵ジョージ・バリントン英語版の娘)と結婚、子供なし[10]
  • アン・エリザベス(1878年11月4日没) - 1826年4月18日、第7代準男爵サー・ヘッドワース・ウィリアムソン英語版(1861年4月24日没)と結婚、子供あり[10]
  • ジョン(1803年2月1日 – 1865年8月[10]
  • ジェーン・エリザベス(1883年3月23日没) - 1823年4月21日、第6代バリントン子爵ウィリアム・ケッペル・バリントン英語版(1867年2月9日没)と結婚[10]
  • ジョージ(1886年4月15日没) - 陸軍士官。1842年5月23日、ルイーザ・ミード(Louisa Meade、1873年5月19日没、ロバート・ミード閣下の娘)と結婚[10]
  • エリザベス・シャーロット(1808年ごろ – 1890年4月15日) - 1835年8月1日、エドワード・アーネスト・ヴィリアーズ閣下(Hon. Edward Ernest Villiers、1843年3月30日没)と結婚[10]
  • ロバート(1808年9月24日 – 1888年6月29日) - 聖職者。1836年1月26日、エミリー・アン・シャーロット・ウェルズリー(Emily Ann Charlotte Wellesley、1876年10月22日没、ジェラルド・ヴァレリアン・ウェルズリー閣下英語版の娘)と結婚、子供あり[10]。第5代レイヴェンスワース男爵アーサー・トマス・リデルの父[10]
  • スーザン(1886年11月22日没) - 1833年10月14日、第4代ハードウィック伯爵チャールズ・ヨーク英語版(1873年9月17日没)と結婚[10]
  • ジョージ・オーガスタス・フレデリック英語版(1812年7月28日 – 1888年12月14日) - 1842年5月11日、セシル・エリザベス・ジェーン・ウェルズリー(Ceceil Elizabeth Jane Wellesley、1883年7月12日没、ジェラルド・ヴァレリアン・ウェルズリー閣下英語版の四女)と結婚、子供あり[10]
  • シャーロット・アメリア(1814年ごろ – 1883年7月16日) - 1833年10月29日、ジョン・トロッター大尉(John Trotter、1870年10月29日没)と結婚[10]
  • チャールズ(1815年5月18日 – 1832年12月1日[10]
  • アドルファス・フレデリック・オクタヴィアス(1818年1月15日 – 1885年6月27日) - 内務省事務次官英語版。1845年10月14日、フレデリカ・エリザベス・レーン=フォックス(Frederica Elizabeth Lane-Fox、1867年11月29日没、ジョージ・レーン=フォックスの娘)と結婚、子供あり[10]
  • ジョージアナ英語版(1905年5月21日没) - 1845年9月4日、第2代ブルームフィールド男爵ジョン・アーサー・ブルームフィールド英語版(1879年8月17日没)と結婚、子供なし[10]

出典

  1. ^ a b c d e f g Fisher, David R. (1986). "LIDDELL, Sir Thomas Henry, 6th Bt. (1775-1855), of Ravensworth Castle, co. Dur. and Eslington Hall, Northumb.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月20日閲覧
  2. ^ a b c d e Cokayne, George Edward, ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 330.
  3. ^ "Liddell, Sir Thomas Henry, Bart. (LDL792ST)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  4. ^ "No. 13974". The London Gazette (英語). 24 January 1797. p. 75.
  5. ^ a b c d e f Stokes, Winifred; Fisher, David R. (1986). "Durham Co.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月20日閲覧
  6. ^ Historic England. "Eslington Park (Grade II*) (1371446)". National Heritage List for England (英語). 2021年10月20日閲覧
  7. ^ Ravensworth Castle and Estate: Conservation Plan (PDF) (Report) (英語). Newcastle upon Tyne: North of England Civic Trust. April 2008. pp. vi–vii. 2021年10月20日閲覧
  8. ^ "No. 17724". The London Gazette (英語). 14 July 1821. p. 1462.
  9. ^ "PARLIAMENTARY REFORM—BILL FOR ENGLAND—SECOND READING—AD JOURNED DEBATE—FIFTH DAY.". Parliamentary Debates (Hansard) (英語). House of Lords. 7 October 1831. col. 340.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 1674–1675.

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代:
ローランド・バードン英語版
サー・ラルフ・ミルバンク準男爵英語版
庶民院議員(カウンティ・ダラム選挙区英語版選出)
1806年 – 1807年
同職:サー・ラルフ・ミルバンク準男爵英語版
次代:
サー・ヘンリー・ヴェイン=テンペスト準男爵
サー・ラルフ・ミルバンク準男爵英語版
イギリスの爵位
爵位創設 レイヴェンスワース男爵
1821年 – 1855年
次代:
ヘンリー・トマス・リデル英語版
イングランドの準男爵
先代:
ヘンリー・ジョージ・リデル
(レイヴェンスワース・キャッスルの)準男爵
1791年 – 1855年
次代:
ヘンリー・トマス・リデル英語版



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)」の関連用語

トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



トマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトマス・リデル (初代レイヴェンスワース男爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS