デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン (戦列艦)とは? わかりやすく解説

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デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン (戦列艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:02 UTC 版)

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デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン
1/87スケールの模型
基本情報
建造所 ロッテルダム
級名 80門戦列艦
艦歴
起工 1664年
進水 1665年
最期 1694年解体
要目
長さ 甲板: 151 ft (46 m)
40 ft (12 m)
吃水 15 ft (4.6 m)
推進 帆走 (3本マストシップ)
兵装 80門:
上砲列: 18ポンド(8kg)砲14門、12ポンド(5kg)砲12門
下砲列: 36ポンド(16kg)砲12門、24ポンド(11kg)砲16門
後甲板:6ポンド(3kg)砲12門
艦首楼: 6ポンド(3kg)砲8門
艦尾楼: 6ポンド(3kg)砲6門
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デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン(De Zeven Provinciën、またはDe 7 Provinciën)はオランダ海軍戦列艦。当初は80門艦として建造された。艦名は英語で「The Seven Provinces」、つまり「7つの州」という意味であり、7つの自治州の連邦であったオランダ共和国のことを意味している。建造はロッテルダムのマース海軍本部が1664年から1665年にかけて行い、設計はサロモン・ヤンス・ファン・デン・テンペルが担当した。

デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンはミヒール・デ・ロイテル提督の旗艦として第2次英蘭戦争を戦い、激闘の末に勝利をおさめた4日海戦や、聖ジェイムズ日の海戦の苦い敗戦に参加した。またメドウェイ川襲撃では司令部とテムズ川封鎖という2つの役割をこなした。この戦争中を通じてデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンは多くの戦果を残したが、4日海戦ではマストを失う場面もあった。

デ・ロイテルは1672年から1673年の第3次英蘭戦争でもデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンを旗艦に使用し、イングランドフランスを相手にしたソールベイの海戦、2回のスホーネヴェルトの海戦、そしてテセル島の海戦の4つの主要な海戦のすべてに参加した。

デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンは1692年までに76門艦に改装され、大同盟戦争バルフルール岬とラ・オーグの海戦に参加した。しかしこの戦いで艦はひどく損傷し、1694年に解体されることとなった。

2008年現在、オランダではデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンの復元計画が進捗している。

参考文献

  • Ships 1660-1669”. Sailing Warships. 2007年12月2日閲覧。
  • De 7 Provincien”. Bataviawerf - Nationaal Scheepshistorisch Centrum. 2007年9月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2007年12月2日閲覧。

関連項目

  • オランダ海軍戦列艦一覧



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