ゾウ厳とは? わかりやすく解説

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ゾウ厳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/03 03:20 UTC 版)

本来の表記は「臧嚴」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

臧厳(臧嚴、ぞう げん、生没年不詳)は、南朝梁官僚文人は彦威。本貫東莞郡莒県

経歴

後軍参軍の臧稜の子として生まれた。幼くして父を失い、喪に服して哀毀し、孝行なことで知られた。貧苦の中を学問につとめ、書巻を手放さなかった。安成王蕭秀の下で侍郎となったのを初任とし、常侍に転じた。従叔父の臧未甄が江夏郡太守となると、臧厳を連れて赴任した。臧厳はその途中で「屯遊賦」を作り、それを見た任昉に賞賛された。また「七算」を作り、その言葉は豊かで美しいものであった。臧厳の性格は偏屈で、他人の要請に応えることがなかった。徐勉はかれを知りたいと思って招いたが、臧厳はついに訪れることがなかった。

冠軍行参軍に転じ、湘東王蕭繹の下で侍読をつとめた。蕭繹が宣恵将軍や軽車将軍を歴任すると、臧厳はその府で参軍をつとめ、記室を兼ねた。臧厳の学問は暗記しているところが多く、とくに『漢書』に詳しかった。蕭繹が自ら四部書目を取ってかれを試すと、臧厳は甲巻から丁巻までそれぞれ一事を答えて、作者の姓名も遺漏がなかった。

526年普通7年)、蕭繹が荊州刺史に転出すると、臧厳はこれに従って西中郎録事参軍をつとめた。535年大同元年)、蕭繹が安西将軍となると、臧厳は安西録事参軍に任じられた。監義陽郡や監武寧郡を歴任し、少数民族の居住地の官をつとめた。以前の太守はいつも武人が選ばれ、兵を率いて駐屯したのに対して、臧厳は数人の門生とともに車一台で入境したため、少数民族たちも喜び、治安も安定した。

539年(大同5年)、蕭繹が石頭戍軍事として入朝すると、臧厳はこれに従って安右録事となった。540年(大同6年)、蕭繹が江州刺史に転出すると、臧厳は鎮南諮議参軍となった。在官のまま死去した。著書に『棲鳳春秋』5巻があった。また文集10巻が当時に通行した。

伝記資料

  • 梁書』巻50 列伝第44
  • 南史』巻18 列伝第8



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