スフラーとは? わかりやすく解説

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スフラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/11 23:00 UTC 版)

スフラー
スフラー (シャー・ナーメより)
生誕 5世紀ころ
パールス州英語版アルダシール・ファッラフ英語版シーラーズ
死没 493年
アソーリスターン州英語版クテシフォン
所属組織 サーサーン朝
戦闘 エフタル・サーサーン戦争
スフラーのエフタル遠征英語版

スフラー (Sukhra、またはスフラー・カーレーン[1])はサーサーン朝の貴族。カーレーン家英語版出身で、484年から493年まで大宰相(ウズルグ・フラマーダール英語版)を務め、サーサーン朝の事実上の支配者となった[2]ペーローズ1世バラーシュカワード1世の3人の皇帝(シャーハンシャー)の治世に活躍した。父のザルミフル・ハザルウフト英語版ザルミフル・カーレーン英語版と混同される。

スフラーの名前が史上に初めて登場したのは、484年に、ペーローズ1世から大宰相に任命されたときである。しかし、同年にペーローズ1世はエフタルとの戦争に敗れて戦死し、帝国の東部領土を喪失した。スフラーはペーローズ1世の敵を討つため、エフタル領に侵攻英語版し、エフタル軍を破った。

エフタル戦役から帰還すると、スフラーは貴族らから称賛を受けた。皇帝にはペーローズ1世の弟バラーシュが即位したが、実際はスフラーが統治の実権を握っていた。488年にはバラーシュを廃して、ペーローズ1世の息子カワード1世を擁立して、実権を保持し続けた。493年、スフラーはカワード1世によってシラーズに追放された。スフラーの反乱を恐れたカワード1世は、レイのシャープール英語版に協力を求め、シャープールがスフラーを打ち負かすと、スフラーはクテシフォンに連行されて処刑された。

生涯

ペーローズ1世の死とバラーシュの治世

パールス州英語版アルダシール・ファッラフ英語版に属するシーラーズで、スフラーは生まれた。その父はアルメニアマルズバーン(地方総督)として活躍したザルミフル・ハザルウフト英語版(ザルミフル・カーレーン)である[3]。484年、ペーローズ1世エフタル軍事侵攻する前に、弟のバラーシュを副王に任命し、スフラーを大宰相に任命した[注釈 1]タバリーによれば、スフラーは大宰相に任命される前に、サカスターン英語版の支配者であった。しかし、ペーローズ1世はエフタルに敗れ(エフタル・サーサーン戦争 (484年)、一説によればヘラートの戦いとも)、戦死した[4]

シャー・ナーメより、エフタル軍を打ち破るスフラー。

アルダシール・ファッラフにいたスフラーは、残されたサーサーン朝の軍の大半を率いて出征した[3]ゴルガーンの地に着くと、エフタル王ホシュナヴァーズはサーサーン朝軍の侵攻の情報を得て、部下に迎撃の準備をさせた。そして、スフラーに対して「あなたの名前と役職、目的を教えよ」と使者を送った。スフラーがホシュナヴァーズに返事をすると、次は「ペーローズ1世と同じ過ちを犯すことになる」と脅した。

しかし、スフラーはホシュナヴァーズの脅しに怯まず、進軍しエフタル軍を破った。ホシュナヴァーズは和平を求めたが、スフラーは、ペーローズ1世から奪った財宝、ゾロアスター教の聖職者(モウベド英語版)、ペーローズ1世の娘のペーローズドゥフトなど、ホシュナヴァーズが略奪したすべてのものをサーサーン朝に返納するという条件でのみ和平を受け入れるとした。ホシュナヴァーズはスフラーの要求を呑み、和平を結んだ。

サーサーン朝の首都クテシフォンに凱旋すると、貴族たちが「スフラーを大いなる敬意をもって出迎え、その功績を称え、皇帝以外は誰もなり得ないほど高貴な地位に引き立てた」。ペーローズ1世時代に実権を握っていたミフラーン家出身の、シャープール・ミフラーン英語版とともにバラーシュはサーサーン朝の新しい皇帝に担ぎ上げ、戴冠させた[1]。この際、バラーシュの弟のザリル(pal:ザーレル)もまた、帝位を主張したため、アルメニアで反乱を起こしていたヴァハン・マミコニアン英語版に譲歩して、その軍事力で反乱を鎮圧している[1]。しかし、バラーシュは貴族やゾロアスター教聖職者たちに不人気であり、わずか4年後の488年に廃位された [5]。スフラーはバラーシュの廃位にも大きく携わっていて[5]、ペーローズ1世の息子カワード1世を新たな皇帝に即位させた[6]ミスカワイヒの記録によれば、スフラーはカワード1世の母方の叔父にあたった[7][8]

カワード1世の治世とスフラーの失脚

カワード1世の治世でもスフラーは権力を握っていた。若く経験が浅いカワード1世は、その治世の最初の5年間の間、スフラーが後見した[7]。この期間、カワード1世は表向きの支配者であり、事実上はスフラーが帝国を支配した。タバリーはスフラーの権勢を力説している。「スフラーは王国の統治と諸事の管理を任された。人々はスフラーのもとを訪ねてあらゆる交渉を行い、カワード1世は重要でないとみなされ、その命令は軽視された[6]。」カワードではなく、スフラーには多くの地方や上流階級から、貢物が納められた[9]。スフラーは王室の財務と軍事力をも掌握した[9]。493年、カワード1世はスフラーの支配に終止符を打とうとして、イラン南西部の故郷シーラーズにスフラーを追放した[7][9]。追放したにも関わらず、王冠以外のすべてを手に入れていたスフラーは、カワード1世を王位に就けたことを誇った[9]

スフラーの反乱を恐れたカワードは、スフラーを政治から完全に取り除こうとした。しかし、軍隊はスフラーの影響化にあり、そもそもサーサーン朝の軍隊はカーレーン家を始めとするパルティア系貴族(特に七大貴族)に依存していたため、事に及ぶには軍事力が不足していた[10]。そこで、カワードはシャープール英語版に解決策を見出した。シャープールは七大貴族ミフラーン家の出身で、スフラーとは対立していた[11]。シャープールは、旗下の軍隊や不満を抱いていた貴族たちを率いてシーラーズに進軍し、スフラーを打ち破り[注釈 2]、クテシフォンでスフラーを投獄した[13]。生かしておくには、権力が強すぎたと判断されたスフラーは処刑された[13]。スフラーの処刑は、一部の貴族たちの不満につながり、カワード1世の国王としての権力が弱まった[14]

死後の影響

反カーレーン家勢力によるスフラーの処刑後、カーレーン家はその勢力を回復している。スフラーの息子ザルミフル・カーレーン英語版は、カワード1世が弟ジャーマースプに王位を奪われるとその復位に尽力した。スフラーの別の息子であるボゾルグメフル英語版(pal:ウズルグミフル・ボーフタラーン・カーレーン)は、カワード1世の復位後に大宰相に任命されており[15]、ミフラーン家カワードの後継者であるホスロー1世の治世中もその職にいた[16]。その後は、ホスロー1世の後継者であるホルミズド4世の下でスパーフベドとして仕えた。ザルミフル・カーレーンとスフラーのまた別の息子カーリーンは、ホスロー1世の突厥遠征に従事し、その褒賞としてザルミフル・カーレーンはザーブリスターン英語版、カーリーンはタバリスターンの土地を与えられた[17]。これが11世紀まで命脈を保ったカーレーン・ヴァンド朝英語版の起源とされている。

スフラーの息子スィーマーフ・ブルゼーン英語版も、ホスロー1世の治世でホラーサーンクスト英語版のスパーフベドを務めた。スィーマーフはホスロー1世が死の間際に後継者の指名に、意見を伺われるほど重用されていた[18]

脚注

注釈

  1. ^ この当時父のザルミフル・カーレーンが地方の総督であることや若年であったこと、ミフラーン家が栄達していたという事実から実際にペーローズ1世の治世下で大宰相に任じられていたかは疑わしい[3]
  2. ^ 青木「ペルシア帝国」では、この時スフラーを破ったのは、バラーシュを共に擁立したシャープール・ミフラーンとある[12]

出典

  1. ^ a b c 青木 2020 p,218
  2. ^ 青木 2020 p,222
  3. ^ a b c 青木 2020 p,219
  4. ^ 青木 2020 p,214,215
  5. ^ a b Chaumont & Schippmann 1988, pp. 574–580.
  6. ^ a b Pourshariati 2008, p. 78.
  7. ^ a b c Schindel 2013, pp. 136–141.
  8. ^ 青木 2020 p,220
  9. ^ a b c d Pourshariati 2008, p. 79.
  10. ^ Pourshariati 2008, pp. 79–80.
  11. ^ Pourshariati 2008, p. 80.
  12. ^ 青木 2020 p,223
  13. ^ a b Pourshariati 2008, p. 81.
  14. ^ Frye 1983, p. 150.
  15. ^ 青木 2020 p,226
  16. ^ 青木 2020 p,233
  17. ^ Pourshariati (2008), p. 113
  18. ^ 青木 2020 p,256

参考文献




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