ジョー・グラボウスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 05:56 UTC 版)
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故人 | |
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ポジション(現役時) | PF/C |
背番号(現役時) | 15, 19, 9, 29, 44, 23 |
身長(現役時) | 201cm (6 ft 7 in) |
体重(現役時) | 88kg (194 lb) |
基本情報 | |
本名 | Joseph W. Graboski |
ラテン文字 | Joe Graboski |
誕生日 | 1930年1月15日 |
没年月日 | 1998年7月2日(68歳没) |
国 | ![]() |
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選手経歴 | |
1948-1950 1951-1953 1953-1961 1961 1961 1961-1962 |
シカゴ・スタッグズ インディアナポリス・オリンピアンズ フィラデルフィア・ウォリアーズ セントルイス・ホークス シカゴ・パッカーズ シラキューズ・ナショナルズ |
受賞歴 | |
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ジョー・グラボウスキー (Joe Graboski, 1930年1月15日 - 1998年7月2日) は1950年代のNBAで活躍した元バスケットボール選手。キャリアの大半をフィラデルフィア・ウォリアーズで過ごし、同チームにおける1956年の優勝に貢献した。
グラボウスキーはトニー・カッペン、コニー・シモンズに続く、高校卒業後、大学に進学せず直接NBA入りを果たした史上3人目の選手であり[1]、シカゴ市のツリー高校卒業後、シカゴ・スタッグズに入団した。スタッグズでの2年間は殆ど出場機会を得られず、また1950年にはスタッグズが解散してしまい、翌シーズンのグラウボスキーはNBAのどのチームにも所属できなかった。1951年にはインディアナポリス・オリンピアンズとの契約に成功。グラウボスキーはこのチームで急成長を見せ、オリンピアンズでの2年目には13.0得点10.0リバウンドのダブル・ダブルの成績を記録した。しかしオリンピアンズはこのシーズン限りで解散。グラボウスキーはまたもや所属するチームを失った。
しかしこの時のグラボウスキーはすでに実力者として認められていたため、すぐにフィラデルフィア・ウォリアーズとの契約に成功した。当時のウォリアーズにはリーグ屈指のセンター、ニール・ジョンストンが在籍しており、グラボウスキーはジョンストンの相棒として毎シーズン平均13得点10リバウンド前後を記録した。ウォリアーズもグラボウスキーの加入、ポール・アリジンの再合流、新人トム・ゴーラの活躍などで、1956年にはファイナルに進出。フォートウェイン・ピストンズを破って優勝を果たした。ウォリアーズでは1960-61シーズンまでプレイ。ウォリアーズでの最後のシーズンにはウィルト・チェンバレンと共にプレイしている。
ウォリアーズからセントルイス・ホークスに移籍したグラボウスキーは1960-61シーズン中にシカゴ・パッカーズ、シラキュース・ナショナルズを渡り歩き、このシーズンを最後に現役から引退した。
BAA/NBA通算成績は13シーズンのプレイで、9,280得点6,104リバウンド、平均11.0得点8.1リバウンドだった。
脚注
- ^ “High School Players to enter NBA”. infoplease.com. 2012年3月18日閲覧。
外部リンク
固有名詞の分類
セントルイス・ホークスの選手 |
クライド・ラブレット ビル・ブリッジーズ ジョー・グラボウスキー ウッディ・ソウルズベリー ジョー・コールドウェル |
フィラデルフィア・ウォリアーズの選手 |
ジョー・ファルクス ウィルト・チェンバレン ジョー・グラボウスキー ウッディ・ソウルズベリー ポール・アリジン |
シラキュース・ナショナルズの選手 |
ジョニー・カー ハル・グリア ジョー・グラボウスキー ドルフ・シェイズ ポール・シーモア |
シカゴ・パッカーズの選手 |
ウォルト・ベラミー ジョー・グラボウスキー ウッディ・ソウルズベリー |
シカゴ・スタッグズの選手 |
ジョー・グラボウスキー アンディ・フィリップ |
インディアナポリス・オリンピアンズの選手 |
ジョー・グラボウスキー |
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