ジョフロワ (ナント伯)とは? わかりやすく解説

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ジョフロワ (ナント伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/21 06:55 UTC 版)

ジョフロワ6世
Geoffroy VI d'Anjou
ナント伯
メーヌ伯
在位 1156年 - 1158年

出生 (1134-06-01) 1134年6月1日
ノルマンディー公国ルーアンまたはアルジャンタン
死去 (1158-07-27) 1158年7月27日(24歳没)
ナント伯領、ナント
家名 ガティネ家
父親 アンジュー伯ジョフロワ4世
母親 マティルダ・オブ・イングランド
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ジョフロワ6世・ダンジューフランス語:Geoffroy VI d'Anjou, 1134年6月1日[1] - 1158年7月27日[2][3]は、ナント伯及びメーヌ伯(在位:1156年 - 1158年)。ジェフリー・フィッツエンプレス(英語:Geoffrey FitzEmpress)ともよばれる。アンジュー伯ジョフロワ4世マティルダ・オブ・イングランドの息子で、兄弟にイングランド王ヘンリー2世やポワチエ伯ギヨームがいる。

生涯

ジョフロワ6世は、マティルダ・オブ・イングランドアンジュー伯ジョフロワ4世の次男である。マティルダは無政府時代にイングランド王位を主張した。難産で生まれ、母マティルダは一時期瀕死となった。

父ジョフロワ4世は遺言で、長男ヘンリーがイングランド王となった場合には次男のジョフロワをアンジュー伯およびメーヌ伯とすると定めた。同時に、父はジョフロワにシノン、ルダン、ミルボーおよびモンソローの城を与えた[4]。父ジョフロワの遺体は、長男ヘンリーがこの遺言の内容を承諾するまで埋葬されなかった。この話は同年代のトゥールの短い年代記にのみ記されている。W. L. Warrenは、この話はジョフロワによるでっち上げであるとしている[2]。しかしThomas K. Keefeはジョフロワ4世の遺言が真実でないとする信頼できる根拠がなく、ヘンリーがアンジュー伯領を奪ったと考えられる、とした[5]

1152年3月、ジョフロワはアリエノール・ダキテーヌを誘拐しようと画策した。アリエノールはフランス王ルイ7世との結婚が解消し、ボージャンシーからポワチエに向かっていた。あらかじめ警告を受け、アリエノールはこの罠から逃れた。ジョフロワはポール=ド=ピルのクルーズ川のそばで待ち伏せし、誘拐が成功したらアリエノールと結婚するつもりであった[6][7]。6月に、ジョフロワの兄ヘンリーとアリエノールがルイが知らないうちに結婚したことに対して、ルイ7世がノルマンディーを攻めた時、ジョフロワはルイ7世とその弟ドルー伯ロベール1世、そしてシャンパーニュ伯アンリ1世およびブロワ伯ティボー5世の兄弟と同盟を結んだ。もし成功すれば、ルイ7世らは5人でヘンリーとアリエノールの領地を分けるつもりであった[8][9]

1153年もしくは1154年にブロワ伯ティボー5世はトゥーレーヌを占領したが、兄ヘンリーはトゥーレーヌを自身の領土と認識していた。ジョフロワらは捕らえられ、ティボー5世はヘンリー2世に、自分たちの自由を保証するためショーモン=シュル=ロワールの城の破壊を要求した[10]。1154年10月にスティーブン王が死去し、同年12月にジョフロワは兄ヘンリーとアリエノールに同行してイングランドに渡り[11][12]、ヘンリーはイングランド王として戴冠した。

1156年夏、ジョフロワは兄ヘンリー2世と再びもめ事を起こした。ヘンリーはシノン、ミルボー、ルダンおよびモンソローの城を包囲した[4]。ジェフリーはそれらを譲ることを余儀なくされたが、いくつかの史料によると、彼はルダンを維持することができたという。ヘンリー2世はジョフロワに他の2つの城のために年1,500ポンドの年金を与えた[13][14]。その包囲が終わった直後、ナントの人々はコルヌアイユ家のオエル3世をナント伯位から退位させ、次のナント伯として誰を招くべきかヘンリー王に尋ねた。そこで彼はジョフロワを提案し、受け入れられた[15]。ジョフロワの死後、ナント伯領はブルターニュ公コナン4世に占領され、その後ヘンリー2世に譲り渡された[16]

ジョフロワは1158年ナントで突然死去した。

脚注

  1. ^ Henry Project, Geoffrey V "le Bel" or "Plantagenet"
  2. ^ a b Warren 1973, pp. 45–47.
  3. ^ Weir 2000, p. 78.
  4. ^ a b Hosler 2007.
  5. ^ Keefe 1974, pp. 266–274.
  6. ^ Kelly 1950, p. 80.
  7. ^ Weir 2000, p. 89.
  8. ^ Kelly 1950, p. 83.
  9. ^ Weir 2000, p. 96.
  10. ^ Chibnall 1991, pp. 157–158, 163.
  11. ^ Kelly 1950, p. 91.
  12. ^ Weir 2000, p. 102.
  13. ^ Warren 1973, p. 65.
  14. ^ Weir 2000, p. 145.
  15. ^ Warren 1973, pp. 65, 76.
  16. ^ Warren 1973, pp. 76–77.

参考文献

先代
オエル
ナント伯
1156年 - 1158年
次代
コナン3世
先代
ヘンリー2世
メーヌ伯
1156年 - 1158年
次代
若ヘンリー王



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