ジョフロワ1世 (アンジュー伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジョフロワ1世 (アンジュー伯)の意味・解説 

ジョフロワ1世 (アンジュー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/30 07:36 UTC 版)

ジョフロワ1世グリズゴネル
Geoffroy Ier Grisegonelle
アンジュー伯
在位 960年 - 987年

出生 938/40年
死去 987年7月21日
配偶者 アデール・ド・ヴェルマンドワ
  アデライード・ド・シャロン
子女 エルマンガルド=ジェルベルジュ
フルク3世
ジョフロワ
モーリス
家名 アンジェルジェ家
父親 アンジュー伯フルク2世
母親 ジェルベルジュ
テンプレートを表示

ジョフロワ1世(Geoffroy Ier d'Anjou, 938/40年 - 987年7月21日)は、アンジュー伯(在位:960年 - 987年)。グリズゴネル(Grisegonelle、灰衣伯)といわれる[1]

生涯

ジョフロワ1世はアンジュー伯フルク2世とジェルベルジュの間の長男として生まれ[2]、960年ごろに20歳ほどで父からアンジュー伯位を継承した[3]。ジョフロワはモー伯ロベール・ド・ヴェルマンドワとアデライード・ド・ヴェルジーの娘アデールと結婚した[2]。アデールは西フランク王ロベール1世の子孫にあたり、父方はカール大帝の男系子孫であった[3]。この結婚により、アンジュー家は最高位のフランス貴族の仲間入りをすることができた[3]

ジョフロワはまず、領地を守る上で戦略上重要な地域に、自身の権力基盤としてアンジェの城を作ることから始めた[4]。アンジェにあるサン=トーバンとサン=セルジュの修道院の土地が、彼の最も忠実な支持者たちに利益をもたらした[4]。このことについて、ジョフロワはフルクおよびモーリスの二人の息子に次のように忠告している:「多くの友人を持つ一族で衰退した一族はない。だから、友人を持つ忠実な人々を大切にするようにしなさい。」[5]。 アンジュー家の権力拡大の主な方法の一つは血縁関係の構築であったが、ジョフロワは様々な方法を用いてその支配力を発揮した[6]。ジョフロワの父フルク2世は、ナント伯(ブルターニュ公アラン2世)の未亡人との結婚によりナントの支配権を手に入れたが、ジョフロワはナント伯(ブルターニュ公)グエレスに自らを領主と認めさせることにより、引き続きナントを支配した[6]メーヌに関しては、メーヌ伯と、ル・マンの子爵や司教との間の対立をジョフロワは利用した[7]。971年頃、司教シジュフロワとの同盟のため、ル・マン教区の保護を約束した[8]。973年、ジョフロワは娘エルマンガルド=ジェルベルジュブルターニュ公コナン1世と結婚させたが[9]、コナンはジョフロワと次第に敵対するようになり、982年には初めてコンクレイユで戦いが起こったが、ジョフロワが勝利した[10]

ジョフロワは、妹アデライード=ブランシュがアキテーヌ地方の有力な貴族であるジェヴォーダンおよびフォレ伯エティエンヌと結婚し、エティエンヌの死後はアデライードがそれらの領地を支配していた関係から、アキテーヌ地方にも影響力を持っていた[11]。甥のポンスとベルトランは伯位を継承し、姪のアルモディスはラ=マルシュおよびペリゴール伯アダルベール1世と結婚した。975年、ジョフロワは弟ギーをル=ピュイ伯および司教に任命した[11]。982年、ジョフロワは未亡人であった妹アデライード=ブランシュを、当時15歳であった後の西フランク王ルイ5世と結婚させ、ルイとブランシュはアキテーヌ王および王妃として戴冠した[10]。ジョフロワはこの結婚によりアキテーヌの支配権を得ようしたが、ルイと30歳近く年上のアデライードとの結婚は後に解消された[10]。ジョフロワは最初の妻であるアデールの死後、アデライード・ド・シャロンと再婚し、10年近くシャロン伯領を支配した[6]。また、息子フルク3世とヴァンドームの女子相続人であったエリザベートとの結婚を通して、アンジュー家はヴァンドームの支配権も得た[12]。息子フルクを共同統治者としてまもなく、マルソン要塞を包囲している間の987年7月21日に、ジョフロワは死去した[13]

子女

最初に、モー伯ロベール・ド・ヴェルマンドワとトロワ伯領女子相続人アデライード(ウェラ)・ド・シャロンの娘アデールと結婚し、以下の子女をもうけた。

二度目に、出自に諸説あるが、ブルゴーニュ公ジルベール・ド・シャロンの娘[17]とされるランベール・ド・シャロン(978年没)の寡婦であったアデライード・ド・シャロンと結婚し[18]、1男をもうけた。

  • モーリス(980年 - 1038年以前)[19] - シャロン伯[6]

参考文献

  1. ^ Norgate, Kate, England Under The Angevin Kings. England: Macmillan (1887).
  2. ^ a b Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band III Teilband 1 (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany, 1984), Tafel 116
  3. ^ a b c d Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 9
  4. ^ a b Medieval Transformations: Texts, Power, and Gifts in Context, Ed. E. Cohen & M.B. de Jong (Brill, Leiden & Boston, 2001), p. 193
  5. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 82 & n. 95
  6. ^ a b c d Bernard S. Bachrach, 'The Idea of the Angevin Empire', Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 4 (Winter,1978), p. 295
  7. ^ Steven Fanning, 'A Bishop and His World Before the Gregorian Reform: Hubert of Angers, 1006-1047', Transactions of the American Philosophical Society, Vol. 78, Part 1 (1978), p. 30
  8. ^ Steven Fanning, 'A Bishop and His World Before the Gregorian Reform: Hubert of Angers, 1006-1047', Transactions of the American Philosophical Society, Vol. 78, Part 1 (1978), p. 29
  9. ^ a b Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band II (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany, 1984), Tafel 75
  10. ^ a b c Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 15
  11. ^ a b Bernard S. Bachrach, 'The Idea of the Angevin Empire', Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 4 (Winter,1978), p. 296
  12. ^ Bernard S. Bachrach, 'The Idea of the Angevin Empire', Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 4 (Winter,1978), p. 297
  13. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 16
  14. ^ Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band III Teilband 4 (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany. 1989), Tafel 817
  15. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 11
  16. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), pp. 11-12
  17. ^ この説が正しければ初婚の妻アデール・ド・モーは後妻アデライード・ド・シャロンの姪に当たる。
  18. ^ Constance Brittain Bouchard, Those of My Blood: Constructing Noble Families in Medieval Francia (University of Pennsylvania Press, Philadelphia, 2001), p. 25
  19. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 14

外部リンク

先代
フルク2世
アンジュー伯
960年 - 987年
次代
フルク3世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジョフロワ1世 (アンジュー伯)」の関連用語

ジョフロワ1世 (アンジュー伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジョフロワ1世 (アンジュー伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョフロワ1世 (アンジュー伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS