コンツァーブリュッケの戦いとは? わかりやすく解説

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コンツァー・ブリュッケの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/16 07:06 UTC 版)

コンツァー・ブリュッケの戦い
戦争仏蘭戦争
年月日1675年8月11日
場所トリーア選帝侯領コンツ
結果:神聖ローマ帝国の勝利
交戦勢力
フランス王国 神聖ローマ帝国
指導者・指揮官
フランソワ・ド・クレキ ロレーヌ公シャルル5世
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルム
オットーネ・エンリコ・デル・カレット英語版
戦力
15,000 16,000
損害
戦死2,000-6,000
負傷1,600
捕虜500-3,000
大砲11門と台車200
戦死1,000

コンツァー・ブリュッケの戦い(コンツァー・ブリュッケのたたかい、ドイツ語: Schlacht an der Konzer Brücke)は仏蘭戦争中の1675年8月11日フランス王国神聖ローマ帝国の間で行われた戦闘。帝国軍が勝利した。

背景

1675年、ライモンド・モンテクッコリ率いる帝国軍とテュレンヌ子爵率いるフランス軍はフィリップスブルク英語版ストラスブールの間を行軍、相手を出し抜いてライン川を渡って進撃しようとした。この行軍ではテュレンヌが一枚上手で7月27日にザスバッハの戦いを優勢のうちに挑んだが、彼は不幸にも砲弾に直撃され戦死した。

指揮官を失ったフランス軍は全ての優勢を放棄して撤退、モンテクッコリはその後を追撃してライン川の向こうに追い返し、ほぼヴォージュ山脈まで追った。

一方、ロレーヌ公シャルル4世率いる帝国軍はテュレンヌが1673年秋に占拠していたトリーアを包囲していた。

戦闘

トリーアへの救援にフランソワ・ド・クレキ率いる1万5千人と大砲11門が派遣されたが、コンツにあるザール川の橋で足止めされた。

帝国軍はグラナ侯爵オットーネ・エンリコ・デル・カレット英語版を派遣して現代でグラナエーヘドイツ語版と呼ばれる山を占領させた。さらに軍の一部を割いてコンツで渡河させ、また一部はポンツーンで渡河した。帝国軍はその後フランス軍の軍営を攻撃したが、3時間続いた戦闘は決着がつかなかった。そこでグラナはちょうどいいタイミングで右翼を率いて攻撃、フランス軍は全ての大砲と台車を捨てて逃走した。帝国軍はフランス軍を50キロメートル以上追撃した。

その後

クレキはなんとかトリーアに入城して指揮を執ったが、9月9日には降伏を余儀なくされた。

1892年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこの戦闘の戦場に「グラナデンクマール」(Granadenkmal)という記念碑を建てたが、それはグラナを記念するものではなく、ドイツ統一を記念するものだった。

脚注

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