コンスタンディノス・デメルジスとは? わかりやすく解説

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コンスタンディノス・デメルジス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 11:55 UTC 版)

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コンスタンディノス・デメルジス
Κωνσταντίνος Δεμερτζής
生年月日 (1876-11-07) 1876年11月7日
出生地 ギリシャ王国 アテネ
没年月日 (1936-04-12) 1936年4月12日(59歳没)
死没地 ギリシャ王国 アテネ
出身校 ミュンヘン・ルートヴィヒ・マクシミリアン大学
所属政党 自由党
国民自由党

在任期間 1935年11月30日 - 1936年4月12日
国王 ゲオルギオス2世
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コンスタンディノス・デメルジス(ギリシャ語:Κωνσταντίνος Δεμερτζής、英語:Konstantinos Demertzis1876年11月7日 - 1936年4月12日)は、ギリシャ王国の政治家。首相を務めた。

生涯

1876年11月7日にアテネに誕生した。アテネ大学ミュンヘン・ルートヴィヒ・マクシミリアン大学で法学を学び、1928年にアテネ大学法学部の親族法の教授になった。

彼の政治生涯は1910年にギリシャ議会選挙で当選したことで始まった。ギリシャ第二共和政成立後の1924年に他の多くの政治家と同じく政党を結成したが、短期間で解散した。

1935年11月30日に国王ゲオルギオス2世がデメルジスを暫定首相に任命し、デメルジスはさらに外相、戦争相、海軍相を兼任した。しかし、比例代表制で行われた選挙では王党派が143議席・共和派が141議席とそれぞれ4割強の議席を得て、15議席を得た共産党がキャスティングボートと化してしまった[1][2]。共産党との協調を選ぶ各政党の姿勢に対して陸軍の不満が くすぶる中、デメルジスは有効な対策を打ち出せないまま、1936年4月13日に心臓発作で死亡した。

脚注

参考文献

  • リチャード・クロッグ著・高久暁訳『ギリシャの歴史』創土社、2004年。ISBN 4-789-30021-8
  • 桜井万里子著『ギリシア史』山川出版社、2005年。 ISBN 4-634-41470-8

外部リンク

公職
先代:
ゲオルギオス・コンディリス
ギリシャ王国首相
第123代:1935年11月30日 - 1936年4月13日
次代:
イオアニス・メタクサス



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