グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前162年の補充執政官)とは? わかりやすく解説

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グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前162年の補充執政官)

(グナエウス・ドミティウス・アエノバルブス (紀元前162年の補充執政官) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 15:15 UTC 版)


グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス
Cn. Domitius Cn. f. L. n. Ahenobarbus
アヘノバルブスが鋳造したコイン
出生 不明
死没 不明
出身階級 ノビレスプレプス
一族 アヘノバルブス家
氏族 ドミティウス氏族
官職 法務官紀元前170年?)
補充執政官紀元前162年
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グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスラテン語: Gnaeus Domitius Ahenobarbus、- 紀元前82年 )は紀元前2世紀中期の共和政ローマ政務官紀元前162年に補充執政官(コンスル・スッフェクトゥス)を務めた。

出自

アヘノバルブスはプレプス(平民)であるドミティウス氏族の出身である。この氏族はアウグストゥス帝の時代にはパトリキ(貴族)とみなされるようになっていた[1]五賢帝時代の歴史家スエトニウスによれば、氏族の先祖が「神のような姿をした双子の若者」に出会い、戦争で勝利したことをローマ人に知らせるよう命じた。その際に、「神の力の証として、彼らは彼の頬に触れ、彼らの髪の毛は黒から赤、銅色に変わった」としている。このため、この人物はアヘノバルバス(赤毛)と呼ばれるようになり、それが子孫のコグノーメン(第三名、家族名)となった[2]。この人物のひ孫がグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスで、紀元前192年にアヘノバルブス家として最初の執政官となった[3]。本記事のアヘノバルブスは、このグナエウスの子にあたる[4]

経歴

アヘノバルブスは紀元前180年代に造幣官を務めたと思われる[5]紀元前172年クィントゥス・フルウィウス・フラックス(紀元前179年執政官)の死去に伴って、アヘノバルブスは神祇官(ポンティフェクス)の一人となった[6][7]紀元前169年末、第三次マケドニア戦争は最終段階であったが、執政官に選出されたばかりのルキウス・アエミリウス・パウッルスの推薦により、アヘノバルブスは現地の状況を調べる特別委員に選ばれた[8][9][10]

紀元前167年、アヘノバルブスは再びバルカン半島に赴く。パウッルスと共にマケドニアに新秩序を組織するための10人委員会の一人となったのである[11]。最初にアヘノバルブスがアカイアに行き、アカイア同盟の指導者たちをローマに召集してマケドニア問題に対処したことは知られている。マケドニア王国は、4つの自治領へと解体された。それぞれが独自の軍隊を持たず、それまでの税金の半分をローマに納めることとなった。それぞれの自治領の住民は、他の自治領に財産を持つことができず、「外国人」との貿易、木材の輸出、銀や金鉱山の開発もできなかった[12][13]

アヘノバルブスがいつプラエトルに就任したかは不明である。執政官就任年とウィッリウス法の規定から紀元前165年以前であることは確かだが、歴史学者ブロートンは、紀元前170年と推定している。紀元前169年の特別委員のリストで、執政官級の次に位置しているからだ[14]

紀元前162年、執政官にプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムガイウス・マルキウス・フィグルスが就任した。ところが、選挙を管理したティベリウス・センプロニウス・グラックスが、鳥占いで悪い兆候が出たと言い始めた[15]。結局二人はローマに呼び戻され、辞任することとなった[16]。補充執政官としてプブリウス・コルネリウス・レントゥルスとアヘノバルブスが選出された[10][17][18]

子孫

息子グナエウス紀元前122年に執政官を務め、孫グナエウス紀元前96年に、ルキウス紀元前94年に執政官を務めた[4]。また、第5代皇帝ネロも男系の子孫に当たる[4]

脚注

  1. ^ Domitius, 1905, s. 1313-1314.
  2. ^ スエトニウス『皇帝伝:ネロ』、1.
  3. ^ Domitius, 1905 , s. 1320.
  4. ^ a b c Domitius, 1905, s. 1315-1316.
  5. ^ Biography of Gnei Domitius Ahenobarbus on the site "History of Ancient Rome"
  6. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLII, 28, 10-13.
  7. ^ Broughton, 1951, p. 414.
  8. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLIV, 18, 5-6.
  9. ^ Broughton, 1951, p. 426.
  10. ^ a b Domitius 19, 1905.
  11. ^ Broughton, 1951, p. 435.
  12. ^ Schoffman 1963, II, 3, 4.
  13. ^ Kovalev, 2002, p. 332-333.
  14. ^ Broughton, 1951, p. 422.
  15. ^ アウレリウス・ウィクトル『ローマ共和政偉人伝』、XLIV, 2.
  16. ^ Marcius 61, 1930, s. 1559.
  17. ^ カピトリヌスのファスティ
  18. ^ Broughton 1951, p. 442.

参考資料

古代の資料

研究書

  • Kovalev S. History of Rome. - M .: Polygon, 2002 .-- 864 p. - ISBN 5-89173-171-1 .
  • Shofman A. History of Ancient Macedonia . - Kazan: Kazan University Publishing House, 1963.
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Münzer F. Domitius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1905. - Bd. V, 2. - Kol. 1313-1316.
  • Münzer F. Domitius 19 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1905. - Bd. V, 2. - Kol. 1322.

関連項目

公職
先代
ティベリウス・センプロニウス・グラックス II
マニウス・ユウェンティウス・タルナ
執政官
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム I(辞任)

ガイウス・マルキウス・フィグルス I(辞任)
同僚: プブリウス・コルネリウス・レントゥルス
紀元前162年

次代
マルクス・ウァレリウス・メッサッラ
ガイウス・ファンニウス・ストラボ



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