グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:56 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ Guidobaldo II della Rovere |
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ウルビーノ公 | |
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グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレの肖像(ブロンツィーノ作)
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在位 | 1539年 - 1574年 |
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出生 | 1514年4月2日 |
死去 | 1574年9月28日(60歳没) |
配偶者 | ジューリア・ダ・ヴァラーノ |
ヴィットーリア・ファルネーゼ | |
子女 | ヴィルジニア フランチェスコ・マリーア2世 イザベッラ ラヴィニア |
家名 | デッラ・ローヴェレ家 |
父親 | フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ |
母親 | エレオノーラ・ゴンザーガ |
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(Guidobaldo II della Rovere, 1514年4月2日 - 1574年9月28日)は、イタリアのコンドッティエーレ、ウルビーノ公(在位:1539年 - 1574年)。
生涯
ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと、エレオノーラ・ゴンザーガ(フランチェスコ2世・ゴンザーガとイザベラ・デステの長女)の間に生まれた。父が暗殺されると、1539年にウルビーノ公となった。
イタリア戦争の間に父がそうであったように、1546年にグイドバルドはヴェネツィア共和国の傭兵隊長となった。最初の妻ジューリア・ダ・ヴァラノと1547年に死別すると、1548年にヴィットーリア・ファルネーゼと再婚した。のち彼は教皇庁によりファノ知事に任命され、司令官の称号を授かった。1559年にスペイン王に雇われ、ベルナルド・サンセヴェリーノ(グイドバルドの娘婿)を補佐してオスマン帝国と戦った。
1573年1月、重税に堪えかねたウルビーノの住民たちが反乱を起こすと、彼は流血も辞さない弾圧で反乱を封じた。
フェラーラからペーザロへ向かう旅の途中に重病となり、急死した。
子女
カメリーノ卿の娘ジューリア・ダ・ヴァラーノと間に1女をもうけた。
- ヴィルジニア(1544年 - 1571年)
パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼの一人娘ヴィットーリアと結婚し、3子をもうけた。
- フランチェスコ・マリーア2世(1549年 - 1631年) - ウルビーノ公
- イザベッラ - 6代ビジニャーノ公ベルナルド・サンセヴェリーノスと結婚
- ラヴィニア - ヴァスト侯アルフォンソ・フェリーチェ・ダヴァロスと結婚
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固有名詞の分類
コンドッティエーレ |
ジョン・ホークウッド グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ アルフォンソ1世・デステ フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ |
ウルビーノ公 |
ロレンツォ2世・デ・メディチ グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ |
デッラ・ローヴェレ家 |
ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ ウルビーノ公国 |
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