クレマンス・ド・オングリーとは? わかりやすく解説

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クレマンス・ド・オングリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 05:38 UTC 版)

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クレマンス・ド・オングリー
Clémence de Hongrie
フランス王妃
ナバラ王妃
在位 1315年8月19日 - 1316年6月5日
戴冠 1315年8月24日

別称 クレマンス・ダンジュー(Clémence d'Anjou)
出生 1293年
死去 1328年10月13日
フランス王国パリ
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
結婚 1315年8月19日
配偶者 フランスルイ10世
子女 ジャン1世
家名 アンジュー=ハンガリー家
父親 カルロ・マルテッロ・ダンジョ
母親 クレメンティア・フォン・ハプスブルク
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クレマンス・ド・オングリー(Clémence de Hongrie, 1293年2月8日 - 1328年10月13日)は、フランスルイ10世の2度目の王妃。クレマンス・ダンジュー(Clémence d'Anjou)とも呼ばれる。

生涯

ハンガリー王位請求者カルロ・マルテッロ・ダンジョナポリカルロ2世の長子)と妃クレメンティア神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の娘)の娘として生まれた。兄はハンガリー王カーロイ1世ヴァロワ朝初代の王となるフィリップ6世は父方の従弟に当たる。

1315年、フランス王ルイ10世は不貞を犯して幽閉されていた初婚の王妃マルグリット・ド・ブルゴーニュが獄死したため(ルイの再婚を可能とするため暗殺されたとも言われている)、同年8月にクレマンスと結婚した。

1316年6月、妊娠中のクレマンスを残してルイは急死した。王弟フィリップが摂政となり、出生に疑惑をもたれる幼い王女ジャンヌの即位を阻止し、クレマンスの男児出生を待った。同年11月、出生と同時に嬰児がジャン1世となったが、わずか4日間しか生きられなかった。そのため、摂政であった王弟がフィリップ5世として即位した。

クレマンスは宮廷を去ってアヴィニョンへ向かった。1318年には、エクス=アン=プロヴァンスドミニコ会修道院へ隠遁した。数年後にパリへ戻ったが、1328年に35歳で亡くなった。





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