カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1295–1323)とは? わかりやすく解説

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カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1295–1323)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/23 23:28 UTC 版)

カテリーナ・ダズブルゴ
Caterina d'Asburgo

出生 1295年10月
神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
死去 (1323-01-18) 1323年1月18日(27歳没)
ナポリ王国ナポリ
埋葬 ナポリ王国ナポリサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会英語版
配偶者 カラブリア公カルロ
家名 ハプスブルク家
父親 ローマ王アルブレヒト1世
母親 エリーザベト・フォン・ケルンテン
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サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会のカタリーナの墓所

カタリーナ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語:Katharina von Österreich, 1295年10月 - 1323年1月18日[1]は、カラブリア公カルロの妃。

生涯

カタリーナはハプスブルグ家出身のローマ王アルブレヒト1世エリーザベト・フォン・ケルンテンの間の娘である。1308年5月1日、カタリーナが12歳の時に父アルブレヒト1世が暗殺された。

カタリーナは最初に、1312年1月から5月の間にピエモンテ領主フィリッポ1世と婚約したが、フィリッポ1世は同年5月にカトリーヌ・ド・ラ・トゥール=デュ=パンと結婚した[2]。ハプスブルク家は次にルクセンブルク家に接近し、カタリーナはハインリヒ7世と結婚することになった。ハインリヒ7世は1311年12月に妃マルグリット・フォン・ブラバントを亡くしていた。結婚式のためカタリーナら一行はイタリアに向かっていたが、1313年8月24日にハインリヒ7世はマラリアのためブオンコンヴェントで死去したため、結婚は取りやめとなった。

フリードリヒ3世は、対イタリア政策のため、1316年にカタリーナをカラブリア公カルロと結婚させた。この結婚からは子供は生まれなかった。7年後の1323年1月18日にカタリーナはナポリで死去し、サン・ロレンツォ・マッジョーレ教会英語版に埋葬された。その後、カルロはフランス王フィリップ6世の異母妹マリー・ド・ヴァロワと再婚した。

脚注

  1. ^ 生没年は、Richard Reifenscheid: Albrecht I. In: Gerhard Hartmann, Karl Rudolf Schnith (Hrsg.): Die Kaiser. 1996, ISBN 3-222-12421-3, S. 391.を参照。
  2. ^ Biographie Katharinas in Medieval Lands.

参考文献




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