オリンベク・ジャウティコフとは? わかりやすく解説

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オリンベク・ジャウティコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 04:54 UTC 版)

  • Орымбек Жәутіков
  • Орымбе́к Жауты́ков
オリンベク・ジャウティコフ
生誕 (1911-05-01) 1911年5月1日
ロシア帝国カラガンダ州コウンラード地区英語版
死没 (1989-05-15) 1989年5月15日(78歳没)
ソヴィエト連邦カザフ・ソヴィエト社会主義共和国アルマトイ
国籍 ソヴィエト連邦
研究分野 数学
研究機関
博士論文 Исследования по теории счетных систем дифференциальных уравнений (1961)
主な受賞歴
プロジェクト:人物伝
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オリンベク・ジャウティコフ[1]カザフ語: Орымбек Ахметбекұлы Жәутіков, : Орымбе́к (Орынбе́к) Ахметбе́кович Жауты́ков, ロシア語ラテン翻字: Orymbek (Orynbek) Akhmetbekovich Zhautykov (1911-05-01) 1911年5月1日 - 1989年5月15日(1989-05-15) )は、ソヴィエト連邦カザフスタン数学者[2]。運動の安定性理論微分方程式の無限系を研究した[3]。終生、研究論文や教科書、数学者の伝記を含む数々の作品を著作した[2]

経歴

生い立ち

帝政ロシアカラガンダ州の村落に生まれた。1920年から地元の学校で学んだ[4]。若い頃からロシア語に興味を持ちロシア語の読み方を学んだ。この関心が功を奏して、ジャウティコフはロシア語で授業を行うデレシンカザフ語版の学校に通学することを許され、その学校で算数を学んだ[2]。その後カルカラル地区英語版ロシア語版の学校に進み、1930年に卒業した。

ジャウティコフはカザフ教育大学英語版カザフ語版数学物理学校に進学し、1934年に数学の学位を得て卒業した。この期間にはスターリン五カ年計画の一環として、コムソモールの命でジャナーカ英語版カザフ語版の集団農場に派遣されたり、カルガル英語版水力発電所の建設に送られたりといった経験をした[2][5]

卒業後の研究

1934年、ジャウティコフはカザフ教育大学数学科でアシスタントとなり、数学研究を始めた。加えてレニングラード国立大学との繋がりによって、ジャウティコフはレニングラード数学・力学研究所の外部生として登録された。レニングラードに赴きイシドル・ナタンソン英語版ロシア語版とともに働いた。しかし独ソ戦の勃発で、研究を停止せざるを得なくなり、アルマトイにあるカザフ教育大学に戻ってコンスタンチン・ペトロヴィッチ・ペルシドスキーロシア語版と働いた。このころ執筆した論文に Некоторые вопросы теории устойчивости движения в смысле Ляпунова がある。この論文は微分方程式系の解の安定性に関するリャプノフの作品について研究したものであった。

1941年から1943年までジャウティコフはカザフ教育大学物理学・数学部の部長を務めた[5]

カザフ・ソヴィエト社会主義共和国科学アカデミー

1945年、ジャウティコフとその同僚は、カニシュ・サトパエフ英語版ロシア語版に導かれてカザフ地域にソヴィエト連邦科学アカデミーを再構築し、人員を増やすためにモスクワを訪れた。ソヴィエト連邦への旅路の間にジャウティコフはレニングラードを訪れ、ウラジーミル・スミルノフレオニート・カントロヴィチと出会い[5]、カザフに新設する学会が注目する科学分野を紹介した。ソヴィエト連邦の科学者から興味を引き出し、ジャウティコフは沢山の支援者を獲得した。1945年10月25日にソビエト連邦人民委員会議の承認を得て、翌年6月1日にカザフ・ソヴィエト社会主義共和国科学アカデミーが設立された。ジャウティコフは5年間常勤研究員として在籍し、その後数学・力学部門の長に就任した[5][6]

その後の研究と晩年

常任研究員であった間、ジャウティコフは数々の数学論文を執筆した。 主に微分方程式・微分方程式系の解の安定性を研究したが、数学者の誕生日・没日を記念して数学者の伝記を書いたこともあった。例えば初期の研究においてその作品を題材としたリャプノフの伝記は最初に発表した伝記類の第1巻に収められている[2][5]

1958年、ジャウティコフは優れた解析学の教科書をカザフ語で作成し、カザフ語話者にとって手に入れ難かった文献への道をひらいた[7]

ジャウティコフは微分方程式の無限系の解の一意性の分野においても数多の論文を発表している。可算な微分方程式系に関する論文を書いて博士号を獲得し、教授となった。1962年5月29日にはカザフ・ソヴィエト社会主義共和国科学アカデミーの学会員に選出された。1965年から1987年まで微分方程式研究室を牽引した[5]

1695年から1985年まで、アカデミーの数学・力学研究所、物理学・数学部門の常勤研究員であった[5][6]。1974年にキム・ヴァレーエフウクライナ語版とともに Бесконечные системы дифференциальных уравнений を著作し、カザフ・ソヴィエト社会主義共和国国家賞カザフ語版を授与された[7]

1945, 1971年に名誉記章勲章英語版ロシア語版、1981年に十月革命勲章を受章した[5][7]

1985年から1989年までジャウティコフはカザフスタン科学アカデミーの長を務めた[3]。1989年にアルマトイで没した[5][7]

死後

カザフスタン当局はジャウティコフの生誕100周年を祝ってジャウティコフの肖像が印刷された切手を発行した[2]。ジャウティコフの名を冠する数学の大会である国際ジャウティコフ数学オリンピック(IZhO)が毎年開催されている。カラカラルにはジャウティコフから名づけられた中等学校が存在した(現在は共和党物理学・数学校カザフ語版に改称されている)。第1回IZhOはこの学校で開催された[7]

主な出版物

出典[5]

数学

  • Задача Коши для счетной системы уравнений с частными производными nго порядка (1951)
  • Об одной теореме функций многих переменных в теории квазилинейных уравнений с частными производными (1954)
  • Обобщение скобок Пуассона для функций счетного множества переменных (1957)
  • Об устойчивости решения задачи Коши для бесконечной системы уравнений в частных производных (1962)
  • Многоточечная краевая задача для диффе ренциальных уравнений с отклоняющимся аргументом (1971)

数学史・教科書

  • Жай дифференциалдық теңдеулер: Жоғары оқу орындарына арналған оқулық (1950)
  • Жай санаудан машиналық математикаға жету (1959)
  • Математиканың даму тарихы (Ерте заманнан 17 ғасырға дейін) (1967)
  • Жоғары математикаға кіріспе (1984)

伝記

  • Александр Михайлович Ляпунов: [К 30летию со дня смерти] (1949) - アレクサンドル・リャプノフ
  • Софья Васильевна Ковалевская [К 100летию со дня рождения] (1950) - ソフィア・コワレフスカヤ
  • Константин Петрович Персидский [К 50летию со дня рождения] (1954) - コンスタンチン・ペトロヴィッチ・ペルシドスキーロシア語版
  • Академик С.Л. Соболев (К 60летию со дня рождения) (1968) - セルゲイ・ソボレフ
  • Жакан Сулейменович Ержанов (К 50летию со дня рождения) (1972) - ジャカン・エルジャーノフロシア語版

出典

  1. ^ 正進社 (2024年12月). “キルギス国数学教員向け教育サービスならびに学力テストサービスにかかるニーズ確認調査”. p. 6. 2025年11月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Orymbek Akhmetbekovich Zhautykov”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews, https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Zhautykov/ .
  3. ^ a b Kazakh Encyclopediasy, Limited Liability Partnership (2005). Жаутыков Орымбек Ахметбекович. Казахстан. Национальная энциклопедия (ロシア語): 306.
  4. ^ Бельгибаева & Абенова 2014, p. 13.
  5. ^ a b c d e f g h i j Бельгибаева & Абенова 2014.
  6. ^ a b Жаутыков Орынбек Ахметбекович. Казахстан, национальная энциклопедия. Vol. 2. 20 November 2009.
  7. ^ a b c d e Ғылым ордасы (14 May 2021). Роль Жаутыкова Орымбека Ахметбековича в развитии математической науки. 2023年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2022年7月2日閲覧.

参考文献




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