エドムンド・プランタジネット (ラトランド伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エドムンド・プランタジネット (ラトランド伯)の意味・解説 

エドムンド・プランタジネット (ラトランド伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 23:05 UTC 版)

エドムンド・プランタジネット
Edmund Plantagenet
ラトランド伯
『クリフォード卿によるラトランドの殺害』(チャールズ・ロバート・レスリー画、1815年)
在位 1446年1月29日 - 1460年12月30日

出生 (1443-05-17) 1443年5月17日
イングランド王国(占領下)、ルーアン
死去 (1460-12-30) 1460年12月30日(17歳没)
イングランド王国ウェイクフィールド
埋葬 イングランド王国ポンテフラクトノーサンプトンシャー、フォザリンゲイ教会
家名 ヨーク家
父親 ヨーク公リチャード
母親 セシリー・ネヴィル
テンプレートを表示

ラットランド(ラトランド)伯エドムンドエドマンド・プランタジネットEdmund Plantagenet, Earl of Rutland, 1443年5月17日 - 1460年12月30日)は、イングランドの王族であり、ヨーク公リチャードセシリー・ネヴィルの(早世しなかった中では)2番目の息子である。

生涯

エドムンドはルーアンで生まれた。後の国王エドワード4世の弟であり、ブルゴーニュ公シャルル夫人マーガレットクラレンス公ジョージ、国王リチャード3世の兄であった。

エドムンドはラットランド伯を名乗った。薔薇戦争中のウェイクフィールドの戦い(1460年12月30日)に敗れ、敵であるランカスター派クリフォード卿の命令(一説にはクリフォード卿自身の手にかかって)によって17歳の若さで処刑された。エドムンドの首は、父リチャード、母方の伯父ソールズベリー伯と共に、ヨークの街の城門にさらされた。

シェイクスピアの戯曲「ヘンリー六世 第3部」の中では、ラットランド伯は史実とは異なり、一番下の弟ということになっており、「命乞いの後にクリフォード卿に惨殺される少年」という脚色された形で描かれている。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エドムンド・プランタジネット (ラトランド伯)」の関連用語

エドムンド・プランタジネット (ラトランド伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エドムンド・プランタジネット (ラトランド伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエドムンド・プランタジネット (ラトランド伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS