ウォルシオフ (ノーサンブリア伯)
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ウォルシオフ 英語: Waltheof |
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ウォルシオフとされる彫像(リンカンシャー、クロウランド修道院の廃墟となった身廊の西正面の第4層)
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ノーサンブリア伯
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先代 | ゴスパトリック |
次代 | ウォルカー |
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在位期間
1072年 - 1076年 |
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先代 | 新設 |
次代 | 空位 (1087年に娘婿シモン1世が継承) |
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死亡 | 1076年5月31日![]() ウィンチェスター セントジャイルズ・ヒル |
埋葬 | ![]() リンカンシャー クロウランド修道院 |
父親 | シワード |
母親 | エルフレッド |
配偶者 | ジュディット・ド・ランス |
子女 モード ジュディス アデリーズ |

ウォルシオフ(英語: Waltheof, Earl of Northumbria, 中英語: Wallef, 古ノルド語: Valþjóf, ? - 1076年5月31日)とは、最後のアングロ=サクソン人伯爵であり、ウィリアム1世の治世中に処刑された唯一のイングランド貴族である。ノーサンブリア伯・ハンティンドン伯・ノーサンプトン伯(在任:1072年 - 1076年)を歴任した。
生い立ち
ウォルシオフはノーサンブリア伯シワードの次男として生まれた。。母の名はエルフレッド(Ælfflaed)で、ノーサンブリア伯ウートレッドの息子であるバーニシア伯エルドレッドの娘であった。1054年、ウォルシオフよりずっと年上の兄オズベオルンがスコット人との戦いで戦死し、ウォルシオフが父の跡を継いだ。シワード自身も1055年に亡くなったが、この頃のウォルシオフはノーサンブリア伯の地位を継承するには幼すぎたため、エドワード懺悔王はトスティ・ゴドウィンソンをノーサンブリア伯に任じた。
ウォルシオフは敬虔で慈善家であったと言われており、おそらく修道生活のための教育を受けていたと思われる。しかし、1065年頃には伯爵となり、ノーサンプトンシャーとハンティンドンシャーを支配した。ヘイスティングズの戦いの後、ウォルシオフはウィリアム1世に服従し、征服以前の爵位と財産を保持することを許された[1]。ウォルシオフは1068年までウィリアム1世の宮廷に留まった。
第一次反乱
1069年、スヴェン2世が北イングランドに侵攻すると、ウォルシオフはウェセックス王家最後のイングランド王位請求者エドガー・アシリングと共にデーン人の遠征部隊に加わり、ヨーク攻撃に参加した。1070年に侵略軍が撤退した後、ウォルシオフは再びウィリアム1世に服従した。ウォルシオフは伯位を回復し、ウィリアム1世の姪であるジュディット・ド・ランスと結婚した。1071年にはノーサンプトン伯に任じられた[1]。
1086年のドゥームズデイ・ブックには、ウォルシオフ(「ウォーレフ」)について次のように記されている。「ハラム(「ハルン」)には、16の村落を持つ一つの荘園があり、29カルケート(約14平方キロメートル)が課税対象となっている。ウォルシオフはそこに「アウラ」(ホールまたは裁判所)を構えていた。約20台の鋤があったとみられる。ロジャー・ド・ビュスリは、この土地をジュディット伯爵夫人の封臣として保有している。」(ハラム、またはハラムシャーは現在、シェフィールドの一部である)。
1072年、ウィリアム1世はゴスパトリックをノーサンブリア伯領から追放した。ゴスパトリックはウォルシオフの従兄弟であり、ヨーク攻撃にも共に参加していたが、ウォルシオフと同様にウィリアムによって恩赦を受けていた。ゴスパトリックは亡命し、ウィリアムはウォルシオフを新たな伯爵に任じた。1072年、ウィリアム1世からダラム城の建設命令を受け、ウォルシオフの指揮下で建設が開始された。この城は後年、ダラム司教ウォルカーとその後継者たちによって大幅に拡張された[2]。
ウォルシオフには北部に多くの敵がいた。その中には、ノーサンブリア豪族ソーブランドの一族もいた。ソソーブランドはかつてウォルシオフの曽祖父ウートレッドを殺害し、これが長きにわたる血の抗争の火種となり、両家の多くの者が命を落とした。 1074年、ウォルシオフは家臣を派遣してライバルを待ち伏せさせるという決定的な行動を取り、4人の兄弟のうちの長男2人を殺害することに成功した。
第二次反乱と処刑
1075年、ウォルシオフはウィリアム1世に対する伯爵の反乱に加わったと伝えられている。ウォルシオフが反乱に参加した動機や関与の深さは不明である。いくつかの史料によると、ウォルシオフは妻ジュディットに陰謀を話し、ジュディットがカンタベリー大司教ランフランクスに伝え、大司教ランフランクスが当時ノルマンディーにいた伯父ウィリアム1世に伝えたという。別の史料によると、ウォルシオフ自身が大司教に陰謀を伝えたという。ウィリアム1世がノルマンディーから帰還すると、ウォルシオフは逮捕され、国王の宮廷に二度召喚され、死刑判決を受けた[1]。
ウォルシオフはほぼ1年間の幽閉生活の後、1076年5月31日にウィンチェスター近郊のセントジャイルズ・ヒルで斬首された[1]。幽閉中の数ヶ月間、ウォルシオフは祈りと断食に励んだと言われている。多くの人々はウォルシオフの無実を信じており、処刑が執行された時には驚いた。その遺体は当初溝に投げ込まれたが、後に回収され、リンカンシャーのクロウランド修道院の参事会堂に埋葬された。反乱への関与を自白したにもかかわらず、反逆罪で処刑された一因は、妻でありウィリアム1世の姪でもあるジュディスが夫ウォルシオフを好んでおらず、ウィリアム1世への忠誠心を信用していなかったことにあった[3]。
無名のノルウェー人詩人、ソルケル・スカラソンは、主君ウォルシオフの追悼詩『ヴァルヨフスフロクル(Valþjófsflokkr)』を作った。この詩の2つの節は、『ヘイムスクリングラ』、『フルダ・フロッキンスキンナ』、そして『ファグルスキンナ』(一部)に保存されている。最初の節では、ウォルシオフがウィリアム1世の家臣100人を熱い火で焼き殺しー「男たちにとって焼けつくような夜」ー狼がノルマン人の死体を食べたと記されている。2つ目は、ウィリアム1世がウォルシオフを裏切り、ウォルシオフを殺させたというものである[4]。
殉教崇拝
1092年、クロウランド修道院の参事会堂で火災が発生した後、修道院長はウォルシオフの遺体を修道院教会の目立つ場所に移した。棺が開けられた際、遺体は無傷で、切断された頭部が胴体に再接合されていたと伝えられている[5]。これは奇跡とみなされ、この件に経済的利害関係を持っていた修道院はこれを宣伝し始めた。その結果、巡礼者がウォルシオフの墓を訪れるようになった。ウォルシオフの追悼式は8月31日に行われた[6][7]。
数年後、ウォルシオフの墓の周辺では治癒の奇跡が起こると言い伝えられ、巡礼者の視力が回復することもしばしば起こった。これらの奇跡は『聖ワルデヴィの奇跡』に記されている。こうしてウォルシオフの生涯は大衆芸術の題材となり、英雄的であるが不正確な内容が『Vita et Passio Waldevi comitis(ワルデヴィの生涯)』[8]、中英語の『Waltheof saga(ウォルシオフのサガ)』(後に失われた)およびアングロ=ノルマン語の『Roman de Waldef(ヴァルデフのロマンス)』[9]に記された。
家族と子女
1070年、ウォルシオフはランス伯ランベール2世とオマール女伯アデライード・ド・ノルマンディーの娘、ジュディット・ド・ランスと結婚した。ジュディットはウィリアム征服王の姪であった。ウォルシオフとジュディットの間には3子が生まれた。
- モード(1074年 - 1130年)[10] - 長女、第2代ハンティンドン女伯。最初にシモン1世・ド・サンリスと結婚、二度目にスコットランド王デイヴィッド1世と結婚。
- ジュディス(1075年 - 1137年)
- アデリーズ(アリス、1075/6年 - 1126年)[10] - アングロ=ノルマン貴族のラウル3世・ド・トニーと結婚
ウォルシオフの孫の一人に、メルローズ修道院長の聖ウォルシオフ(1159年没)がいる[1]。
脚注
- ^ a b c d e Chisholm 1911.
- ^ “Durham Castle”. Durham World Heritage Site. 2019年9月19日閲覧。
- ^ Freeman 1880, p. 6.
- ^ Skallason 2009, pp. 382–384.
- ^ Webb 2000, pp. 32–3.
- ^ “Den hellige Waldef av Croyland ( -1076)”. Den katolske kirke. 2017年8月31日閲覧。
- ^ Farmer, David (14 April 2011). The Oxford Dictionary of Saints, Fifth Edition Revised. Oxford University Press. ISBN 978-0199596607 2017年8月31日閲覧。
- ^ Michel 1836, pp. 99–142.
- ^ Holden 1984.
- ^ a b Parker 2022, p. 130.
参考文献
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Waltheof”. Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 299.
- Chronicle of Britain ISBN 1-872031-35-8
- Hunt, William (1899). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 58. London: Smith, Elder & Co. . In
- Lewis, C. P. “Waltheof, earl of Northumbria (c. 1050–1076)”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/28646. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- Bain, Joseph, ed (1881). Calendar of Documents relating to Scotland Preserved in Her Majesty's Public Record Office, London. I. Edinburgh: H M General Register House. p. 3. No 13.
- Parker, Eleanor (2022). Conquered: The Last Children of Anglo-Saxon England. Bloomsbury Publishing
- Freeman, E. (1880). A Short History of the Norman Conquest of England. Oxford. p. 6
- Skallason, Þorkell (2009). Kari Ellen Gade. ed. Valþjófsflokkr. Skaldic Poetry of the Scandinavian Middle Ages II. Poetry from the Kings' Sagas 2. Turnhout: Brepols. pp. 382–384[1]
- Webb, Diana (2000). Pilgrimage in Medieval England. Hambledon and London. pp. 32-3. ISBN 185285250X
- F. Michel, ed (1836). “Vita et Passio Waldevi Comitis (with the Miracula)”. Chroniques Anglo-Normandes. Vol. II. Rouen: Éduard Frère. pp. 99-142
- Holden, A.J., ed (1984). Le Roman de Waldef. Bibliotheca Bodmeriana, Textes, 5. Coligny-Genève: Fondation Martin Bodmer
外部リンク
- イングランドのアングロサクソンのプロソポグラフィのWaltheof 2。
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