ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)の意味・解説 

ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/15 04:31 UTC 版)

閣下
初代クリーヴランド公爵
ウィリアム・ヴェイン

KG
議会用のローブをまとった初代公爵。
A.W.デヴィス作, 1810年
個人情報
生誕 ウィリアム・ヘンリー・ヴェイン
(1766-07-27) 1766年7月27日
死没 1842年1月29日(1842-01-29)(75歳)
セント・ジェームズ・スクエア英語版, ウェストミンスター, ロンドン
国籍 イギリス
配偶者
  • キャサリン・ポーレット
    (m. 1787; d. 1807)
  • エリザベス・ラッセル (m. 1813)
出身校 クライストッチャーチ・カレッジ

初代クリーヴランド公爵ウィリアム・ヘンリー・ヴェイン: William Henry Vane, 1st Duke of Cleveland, KG、1766年7月27日 – 1842年1月2日)は、イギリスの貴族地主資産家政治家ホイッグ党所属。

ダーリントン伯爵家に生まれ、伯位継承までバーナード子爵として庶民院議員を務めた。ゴドリッチ内閣期にクリーヴランド侯爵に昇ったのち、グレイ伯爵率いるホイッグ政権下でクリーヴランド公爵に叙されて公爵家を興した[1]

生涯

第2代ダーリントン伯爵英語版とマーガレット・ラウザー(Margaret Lowther、初代ロンズデール伯爵英語版の娘)との息子として生まれた[1][2]。父方の祖母にグレース・フィッツロイがいる。彼女は国王チャールズ2世の庶子の家系たるクリーヴランド公爵家出身であるため、ウィリアムもこの流れで王家の系統を汲む[注釈 1]オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジに学んだ[1]

1788年にトットネス選挙区英語版より出馬して庶民院議員に当選、1790年まで議席を占めた[3]。同年から1792年にかけては、父が直近で購入したウィンチェルシー選挙区英語版に鞍替えして選出され庶民院議員を務めている[3]。党派としてはホイッグに属しながら、議員初期にはピット首相を支持した。しかし、ピットは叙爵を求める彼の要求を認めなかったために、両者は次第に疎遠になったという[3][4]

1792年に父の死去に伴ってダーリントン伯爵位を継承、貴族院に列した[1]。爵位継承後は次第にホイッグに傾倒していったが、カニング英語版ウェリントン英語版両内閣に関しては支持している[4]。ただし、基本的には腐敗選挙区廃止を含む政治改革の支持者であったため、トーリーに転向した長男や次男を疎んじた一方で、ホイッグに留まった末息子を支援した。この点に関して、『英国人名事典』は「公爵は(自身の保持した)6つの腐敗選挙区をかなぐり捨てることも躊躇わなかった」と評している[4]

他方、財産の面では1808年に遠縁のバース女伯爵英語版が死去すると、彼が広大なパルトニーの地所を相続することが認められた[5]。1833年の奴隷制度廃止を巡っては賛成票を投じている[3]。廃止法可決に伴って、バルバドスに奴隷を保持していた公爵は1837年に奴隷補償法英語版によって金銭補償を受けた[4]

1827年にクリーヴランド侯爵に昇った[2][6]。1831年のウィリアム4世戴冠即位式では第三の剣(Third Sword)を持つ役割を担った[7]。さらに1833年には連合王国貴族としてクリーヴランド公爵及びレイビー男爵を授けられた[2][8]。続く1839年にもガーター勲章を受勲している[9]。この急速な栄達に関して、官吏チャールズ・グレヴィル英語版[注釈 2]は自身の日記で次のように述べている。

昨日の朝、ウェストミンスター寺院ハウ伯爵が『クリーヴランド卿が公爵となる』と言ってきた。だが、そうなるかどうかはまだ決まってはいない。その件については議論があり、彼は侯爵となるために腐敗選挙区を手に入れ、公爵になるために選挙区を手放したと言われている[11][1][4]

1842年に75歳で死去、ダラム州ステインドロップ英語版に埋葬された[1]。爵位は長男ヘンリーが継承した[2]

遺言では親友の政治家ブルーム卿を遺言執行人の一人に指名したほか、家族のみならず彼にも土地や宝石、コンソル債を贈与している[4]

家族

1787年にキャサリン・ポーレット(Katherine Powlett、第6代ボルトン公爵ハリー・ポーレット英語版の次女)と結婚して、三男五女をもうけた[2]

1813年にエリザベス・ラッセル(Elizabeth Russell、1861年埋葬)と再婚したが、夫妻に子はなかった[2]

脚注

注釈

  1. ^ ただし、公爵家は第3代クリーヴランド公爵が1774年に没した際に廃絶している。
  2. ^ チャールズ・グレヴィル枢密院書記官英語版を務めた官吏で、国王ジョージ4世からウィリアム4世の在世期にかけて日記を記した著述家[10]

出典

  1. ^ a b c d e f Cokayne, G. E. 著、Gibbs, Vicary、Doubleday, H. Arthur 編『The Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts)』 3巻(2nd)、The St Catherine Press、London、1913年、284-285頁https://archive.org/details/completepeerageo03coka/page/284/mode/2up 
  2. ^ a b c d e f Heraldic Media Limited. “Cleveland, Duke of (UK, 1833 - 1891)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月21日閲覧。
  3. ^ a b c d Collinge, J.M. (1986). "VANE, William Harry, Visct. Barnard (1766-1842), of Raby Castle, co. Dur.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年6月21日閲覧
  4. ^ a b c d e f Carr, William revised by K. D. Reynolds. "Vane, William Harry, first duke of Cleveland". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/28088 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. ^ 'Hornsey, including Highgate: Other estates', in A History of the County of Middlesex: Volume 6, Friern Barnet, Finchley, Hornsey With Highgate”. London: British History Online. pp. 146–149 (1980年). 2020年7月14日閲覧。
  6. ^ "No. 18397". The London Gazette (英語). 18 September 1827. p. 1955.
  7. ^ "No. 18848". The London Gazette (英語). 13 September 1831. p. 1865.
  8. ^ "No. 19013". The London Gazette (英語). 15 January 1833. p. 97.
  9. ^ "No. 19726". The London Gazette (英語). 19 April 1839. p. 832.
  10. ^ Christopher Hibbert (2004) "Greville, Charles Cavendish Fulke (1794–1865)". Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press.
  11. ^ Charles C. F. Greville, A Journal of the Reigns of King George IV and King William IV, volume II (London, Longmans Green & Co, 1874), at page 192

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代
フィリップ・
ジェニングス=クラーク英語版

ヘンリー・フィップス
庶民院議員
トットネス選挙区英語版選出

1788–1790
同職:ヘンリー・フィップス
次代
ウィリアム・ポーレット英語版
F.B.ヤード
先代
ジョン・ネスビット
ウィリアム・ネダム英語版
庶民院議員
ウィンチェルシー選挙区英語版選出

1790–1792
同職:リチャード・バーウェル英語版
次代
リチャード・バーウェル英語版
フレデリック・
フレッチャー=ヴェイン英語版
名誉職
先代
第2代ダーリントン伯爵英語版
カウンティ・ダラム統監英語版
1792–1842
次代
第3代ロンドンデリー侯爵
先代
初代ダーリントン伯爵
ダラム副提督英語版
1795–1842
イギリスの爵位
爵位創設 クリーヴランド公爵
1833–1842
次代
ヘンリー・ヴェイン
クリーヴランド侯爵
1827–1842
グレートブリテンの爵位
先代
ヘンリー・ヴェイン英語版
ダーリントン伯爵
1792–1842
次代
ヘンリー・ヴェイン



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)」の関連用語

ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウィリアム・ヴェイン (初代クリーヴランド公爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS