イーゴリ・ヤロスラヴィチとは? わかりやすく解説

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イーゴリ・ヤロスラヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 06:30 UTC 版)

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イーゴリ・ヤロスラヴィチ
Игорь Ярославич
ヴォルィーニ公
スモレンスク公
在位 ヴォルィーニ公1054年 - 1057年
スモレンスク公:1057年 - 1060年

出生 1036年?
死去 1060年
子女 ダヴィド
フセヴォロド
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ヤロスラフ1世
母親 インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ
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イーゴリ・ヤロスラヴィチロシア語: Игорь Ярославич聖名ゲオルギー、1036年? - 1060年)は、ヤロスラフ1世とインゲゲルド(en)との間の子である。ヴォルィーニ公(在位:1054年 - 1057年)、スモレンスク公(在位:1057年 - 1060年)。

誕生年と兄弟順

広く公認されているのは、タチーシチェフ(ru)による「1036年生まれの六男」という説である。一方、数人の歴史家は、史料を元に「1034年 - 1035年生まれの五男」と推測している。とりわけ『原初年代記』の、「スモレンスクヴャチェスラフ(イーゴリの兄弟)が死去した際に、イーゴリはウラジーミルより移された」という記述[1]を重視している[2]

生涯

1054年、父の遺産相続としてヴォルィーニ公国を得た。1057年にスモレンスク公ヴャチェスラフが死に、スモレンスク公となった[3]。しかしイーゴリは1060年[1]、兄弟のヴャチェスラフのように若すぎる死を迎えた。死はおそらく24歳ごろのことであり、後にはダヴィドとフセヴォロドという幼い子が残された。イーゴリの遺児は一族の年長者の決定により、父の公位を継げない(イズゴイ・クニャージとして扱われた)ことが決まった。

なお、信憑性には欠けるものの、ヤン・ドゥウゴシュの記述ではイーゴリは、ボレスワフ2世イジャスラフ1世と共にルーシに来た際に、彼の元に屈したという。

妻子

妻については不明である。従来はオーラミュンデ伯オットー1世の娘クニグンデと思われてきたが、現在は否定されている(ヤロポルク・イジャスラヴィチの妻と考えられている)。子には以下の人物がいる。

出典

  1. ^ a b 國本哲男 『ロシア原初年代記』186頁
  2. ^ Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь — М.: Наука, 1993
  3. ^ 國本哲男 『ロシア原初年代記』184頁

参考文献

先代:
スヴャトスラウ2世
ヴォルィーニ公
1054年 - 1057年
次代:
ロスチスラフ
先代:
ヴャチェスラフ
スモレンスク公
1057年 - 1060年
次代:
ウラジーミル2世モノマフ



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