イヴァン・ウンコフスキーとは? わかりやすく解説

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イヴァン・ウンコフスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/01 13:41 UTC 版)

ゲオルク・フォン・ボートマンドイツ語版による肖像画。

イヴァン・セミョーノヴィチ・ウンコフスキー[1]Ива́н Семёнович У́нковский、姓はウニコフスキーとも[1]1822年3月29日1886年8月11日)は、ロシア帝国海軍の軍人。エフィム・プチャーチンニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーの来日にあたり、軍艦艦長として随行した。帰国後はヤロスラヴリ県英語版知事を務めた。

本項における日付はいずれもユリウス暦である。

略歴

1822年3月29日、ロシア帝国カルーガ県英語版ペレムィシュリ郡英語版コリシェヴォロシア語版で生まれた[2]。1839年/1840年に海軍幼年学校を卒業すると、1840年にバルチック艦隊に配属された[2]。1841年に黒海艦隊に転じ、1851年に再びバルチック艦隊に転じた[2]。黒海艦隊では1842年より艦隊司令官ミハイル・ペトロヴィチ・ラザレフ英語版の副官を務めた[2]

バルチック艦隊では1852年から1854年までフリゲートパルラダ号英語版艦長を務め、エフィム・プチャーチンが日本との開港交渉に派遣されたときに来日した[2](このときの軍階は海軍少佐だった[1])。1855年にもパルラダ号で日本海における朝鮮東海岸のうち、北緯35度から42分20度までの部分を測量して記載を行った[2][3]。このときにオルガ湾英語版ピョートル大帝湾におけるポシェト湾を発見している[2]。1857年から1860年までフリゲートのアスコルド号の艦長を務め、1859年のニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーによる対日交渉にあたり、来日したロシア艦隊の司令官を務めた[2]。1860年、海軍少将に昇進した[2]

1861年から1877年までヤロスラヴリ県英語版知事を務め、1873年に元老院議員に就任した[2]。1880年に聖アレクサンドル・ネフスキー勲章、1883年に一等聖ウラジーミル勲章英語版を授与された[2]

1886年8月11日、モスクワで死去した[2]

出典

  1. ^ a b c ワジム・クリモフ「琉球におけるロシア人たち(一八五四年二月一日―九日)」『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号、2015年3月、150頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l "УНКОВСКИЙ ИВАН СЕМЁНОВИЧ". Большая российская энциклопедия (ロシア語). Vol. 33. Moscow. 2017. p. 46.
  3. ^ ソ連科学アカデミー海洋研究所 著、盛谷智之 訳、V. N. Stepanov 編「日本海の地質と水理の基本的特徴」『地質調査所月報』第22巻、第12号、地質調査総合センター、31頁、1971年https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/22-12_05.pdf 
官職
先代
アレクセイ・オボレンスキー英語版
ヤロスラヴリ県英語版知事
1861年 – 1877年
次代
ニキータ・シュミットロシア語版



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