アレッサンドロ・ファルネーゼ_(1635-1689)とは? わかりやすく解説

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アレッサンドロ・ファルネーゼ (1635-1689)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 09:52 UTC 版)

アレッサンドロ・ファルネーゼ
Alessandro Farnese
ファルネーゼ家

出生 (1635-01-10) 1635年1月10日
パルマ公国パルマ
死去 (1689-02-18) 1689年2月18日(54歳没)
スペイン帝国マドリード
父親 オドアルド1世
母親 マルゲリータ・デ・メディチ
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アレッサンドロ・ファルネーゼAlessandro Farnese, 1635年1月10日 - 1689年2月18日)は、イタリアパルマ公国の支配者ファルネーゼ家の公子、軍人。スペイン王家に仕え、ナバラ副王カタルーニャ副王、ネーデルラント総督を歴任した。

生涯

パルマ公オドアルド1世とのその妻でトスカーナ大公コジモ2世の娘であるマルゲリータ・デ・メディチの間の第3子、次男として生まれた[1]

1656年から1658年までヴェネツィア共和国騎兵軍の将軍として、オスマン帝国との戦争に従軍した。その後スペイン軍に移り、1664年11月17日にイタリア人騎兵部隊の将軍となった。1671年にナバラ副王となり、同時に金羊毛騎士団の騎士に叙任された。1676年にはカタルーニャ副王に、1678年にはネーデルラント総督に転じ、1682年4月まで総督職にあった。1682年12月から1687年までは、再びヴェネツィア軍の将軍を務めた。1687年にはスペイン大提督の地位を与えられて、スペイン国王カルロス2世の相談役となった。

生涯独身を通したが、愛妾マリア・デ・ラオ(Maria de Lao y Carillo)との間に2男2女の庶子があった。

脚注

  1. ^ Miroslav Marek (2003年10月15日). “Alessandro Farnese(Farnese2:C3)”. genealogy.euweb.. 2012年10月15日閲覧。

外部リンク

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先代
ディエゴ・カバレロ・ディ・イジェスカス
ナバラ副王
1671年 - 1676年
次代
フエンサリダ伯爵
先代
フアン・アントニオ・パチェーコ・オソリオ・トレド
カタルーニャ副王
1676年 - 1677年
次代
モンテレイ伯爵
先代
ビジャエルモサ公爵
スペイン領ネーデルラント総督
1678年 - 1682年
次代
サヴォーナ侯爵



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