カルロス・デ・アラゴン・デ・グレア・イ・デ・ボルハとは? わかりやすく解説

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カルロス・デ・アラゴン・デ・グレア・イ・デ・ボルハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:33 UTC 版)

カルロス・デ・アラゴン・デ・グレア・イ・デ・ボルハ
Carlos de Aragón de Gurrea y de Borja
第9代ビヤエルモサ公

出生 (1634-08-18) 1634年8月18日
スペイン帝国ペドロラ英語版
死去 (1692-08-13) 1692年8月13日(57歳没)
スペイン帝国サラゴサ
配偶者 マリア・エンリケス・デ・グスマン
家名 ボルジア家
役職 スペイン領ネーデルラント総督(1675年 - 1677年)
カタルーニャ副王(1688年 - 1690年)
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カルロス・デ・アラゴン・デ・グレア・イ・デ・ボルハCarlos de Aragón de Gurrea y de Borja, 1634年8月18日 - 1692年8月13日)は、スペインの貴族、政治家。第9代ビヤエルモサ公爵英語版。副王職、総督職を歴任した。

生涯

ボルジア家の一員であり、聖フランシスコ・デ・ボルハの次男である初代マヤルデ伯爵フアン・デ・ボルハ英語版の曾孫にあたる。母および父方の祖母はアラゴンフアン2世の庶子である初代ビヤエルモサ公爵アルフォンソの子孫である。1656年にマリア・エンリケス・デ・グスマン(Maria Enriquez de Guzman)と結婚するが、間に嫡子を儲けることはなかった。

1675年にスペイン領ネーデルラント総督に赴任するが、当時の南ネーデルラントフランスオランダの間で起きたオランダ侵略戦争の戦場と化しており、在職中に任地における総督府の支配権を回復することは出来なかった。1678年に金羊毛騎士団の騎士叙任を受けた。1688年から1690年にかけ、カタルーニャ副王を務めた。

参考文献

  • Andújar Castillo: Consejo y Consejeros de Guerra en el siglo XVIII. Granada, 1996. Pp.: 197-198.
  • Henry Kamen: La Guerra de Sucesión en España. 1700-1715. Barcelona, 1974.
先代
モンテレイ伯爵
スペイン領ネーデルラント総督
1675年 - 1677年
次代
パルマ公子アレッサンドロ
先代
メディナ・デ・リオセコ公爵
カタルーニャ副王
1688年 - 1690年
次代
メディナ・シドニア公爵



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