アララギをめぐる確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 00:49 UTC 版)
長塚は伊藤左千夫と終生にわたり親交を続けたが、一方で『アララギ』の創刊に当たり編集を担った伊藤と対立。財務編集担当であった蕨真一郎に対し、伊藤の姿勢に不満を漏らす長文の手紙を送りつけている。このため伊藤の再三の要求にも関わらず、長塚は『アララギ』に作品を発表することはほとんどなく、1913年(大正2年)に伊藤が死去した後の1914年(大正3年)にようやく「鍼の如く」の和歌232首の連作を発表している。
※この「アララギをめぐる確執」の解説は、「長塚節」の解説の一部です。
「アララギをめぐる確執」を含む「長塚節」の記事については、「長塚節」の概要を参照ください。
- アララギをめぐる確執のページへのリンク